[#表紙(表紙.jpg)] 夢枕 獏 陰陽師 太極《たいきよく》ノ巻 目 次  二百六十二匹の黄金虫  鬼小槌  棗《なつめ》坊主  東国より上る人、鬼にあうこと  覚《さとる》  針魔童子《はりまどうじ》  あとがき [#改ページ]   二百六十二匹の黄金虫      一  紅葉《もみじ》に陽光が当って光っている。  午後の陽差しは、ゆっくりと天に帰ろうとしていた。  しばらく前までは、庭全体に当っていた陽の光が、今は丈の高い草の葉先にしか当っていない。紅葉の根元には、もう、伸びてきた西側の築地塀《ついじべい》の影が差している。  黄色い花を付けた女郎花《おみなえし》の群落が、傾いた陽差しの中に頭を残している。  秋の日が、ゆったりと暮れようとしていた。 「なんとも穏やかな一日であったな」  そうつぶやいたのは、源博雅《みなもとのひろまさ》であった。  博雅は、簀子《すのこ》の上に座して、庭に視線を放っている。  安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷──  博雅の前に、晴明が片膝を立てて座している。  柱の一本に背をあずけ、眼を閉じるともなく開くともなく、半眼にして、うっとりと酔ったように博雅の声に耳を傾けている。  晴明は、右手の、細い白い指先に、酒の半分ほど入った杯を持っている。 「なあ、晴明よ。こうしていると、草や木や風や陽差しが、自然《じねん》の楽《がく》の音《ね》を奏《かな》でているようではないか」  博雅の手の中にある杯は、すでに空になっている。  しばらく前に、博雅はそれを飲み干して、まだ簀子にもどしていないのだ。 「おれは、今日一日、その楽の音の中に自分の身体を浸しているようであったよ」  博雅は、軒から覗く、青い天を見あげた。  青い天に秋の光が満ちている。  玲玲《れいれい》と、高い天の風の中に、笛の音が響き渡っているようであった。  晴明は答えない。  ぽつりぽつりと博雅の唇からこぼれ出てくる声や言葉すらも、晴明の耳には自然の楽の音のように聴こえているらしい。  博雅が晴明の屋敷にやってきたのは、まだ昼前であった。 「よい秋の日和であったのでなあ」  博雅はそう言って晴明を見やり、 「なんだかおまえの顔を見たくなってしまったのだよ」  はにかんだように微笑した。  それから、何をするでもなく、ぽつりぽつりと会話をしながら、同じ簀子の上で、日がな一日、ふたりで秋の庭を眺めていたのである。  時には、互いに半刻近くも黙ったままでいることもあった。  長い沈黙が、晴明も博雅も、互いに苦にならない。  博雅は、空になった自分の杯に酒を満たし、晴明の杯にも酒を満たした。  ほろほろと酒を飲む。  蜜虫も、蜜夜もいない。  ふたりだけだ。  瓶子《へいし》に酒がなくなると、どこからともなく蜜虫が現われて酒を足してゆくが、その他は誰も姿を現わさない。  すでに、博雅は、自分が乗ってきた牛車《ぎつしや》を帰してしまっている。  帰る時には、晴明が牛車を出してくれるであろうし、牛車がなければないで、歩いて帰ればよいだけのことだ。車に乗らずに、歩いて晴明の屋敷へ来ることもあれば、歩いて帰ることもある。  別に珍らしいことではない。  この男、殿中人《でんちゆうびと》にあるまじきそのようなことを平気ですることがある。  博雅には、それが苦にならない。 「ところで晴明──」  何か思い出したように、博雅が晴明に声をかけた。 「何だ、博雅」  半眼のまま、晴明が答える。 「恵増上人《えぞうしようにん》の話は、まだ耳にしていないか」 「醍醐寺の恵増和尚のことか」 「うむ」 「どういう話だ」 「十日ほど前に、お上人が主上に自ら語られた話さ。それが実に奇特な話であったというので、主上が近習《きんじゆう》の者にそれを語られて、我々の耳にまで届いてきた話だ」 「おう。『法華経』の中の、二文字だけが、なかなか覚えられなかったという話だな──」 「そうか。もうおまえの耳にまで届いていたか──」 「それがどうしたのだ」 「いや、不思議な話があればあるものだと思うてな。しかし、よく考えてみれば、なるほどそうかとうなずける話でもある。この庭を眺めているうちに、ふと、その話のことを思い出していたのだよ」  博雅は言った。  博雅が口にした恵増上人の話は、この数日、宮中でやんごとない人々の口の端《は》にのぼっている。  こういう話だ。  伏見にある醍醐寺の恵増上人は、若い頃から�その才並ぶ者なし�と言われた秀才であった。 『仁王経《にんのうぎよう》』や『涅槃《ねはん》経』もたちまち諳《そら》んじてしまい、読むよりも速く楽々と唱《とな》えることができるようになってしまった。  しかし、その次に覚えようとした『法華経』がうまくゆかない。 『法華経』は大部の、長大なる経典である。その全てを諳んずるというのはむろんたいへんなことなのだが、実は恵増は、そのほとんどを覚えてしまったといっていい。  しかし、たった二文字だけが、どうしても覚えられないのである。  それは、「方便品《ほうべんぼん》」の�比丘偈《びくげ》�の中にある、 「瞻仰《せんごう》」  という文字であった。   相視懷猶豫   瞻仰兩足尊   相|視《み》て猶予《ゆうよ》を懐《いだ》き   両足尊《りようそくそん》を瞻仰《せんごう》す  このように読むところである。  両足尊とは、つまり仏のことであり、この仏を仰ぎ見ることを瞻仰というのである。  この、 �瞻仰�  という二文字を、何度読んでも、諳んずることができないのである。  経典を読みながら、何度も何度も繰り返し読み、覚え、諳んじたと思って経典を伏せてしまうと、もう、その二文字が何であったかを思い出せなくなってしまっているのである。  どういうことなのか。  もしも、頭が悪くて諳んずることができないと言うのなら、『仁王経』や『涅槃経』だって覚えられないはずである。 『法華経』であっても、二文字をのぞいたら、全てを諳んずることはできているのである。いったい、どういう原因があって、この二文字を覚えられないのか。  それを知ろうとして、恵増は七日間長谷寺にこもって、 「願わくは、大悲観世音、我れに此《こ》の二字《にじ》の文《ふみ》覚えさせたまえ」  このように祈請《きしよう》した。  すると、七日目の夜明け、恵増の夢の中に、ひとりの老僧が姿を現わした。  老僧は、自分は観世音菩薩の使いであると恵増に告げ、 「このわしが、そなたにこの二文字を暗《そら》で覚えさせてやろうではないか」  このように言った。 「まず、そなたが『法華経』の二文字を覚えられぬ理由《わけ》だが、それは前世に因縁がある」 「前世でございますか」 「そなたは前世には、播磨国賀古郡《はりまのくにかこのこおり》にある大願寺という寺の僧であった。ある時そなたは、火に向かって『法華経』の第一巻を読誦《どくじゆ》しておった。そのおり、火がふたつ飛んで、そなたが手にしていた『法華経』の上に落ち、ふたつの文字を焼いたのじゃ。これが、�瞻仰�の二文字であったのだ。その焼けた二文字を書き綴らぬまま、おまえはこの世を去った。その『法華経』は、まだその寺にある。そこへ出かけてゆき、その経を拝して、焼けたる二文字を書き綴るがよい。さすれば、そなたは件《くだん》の二文字を諳んずることができるであろう」  このように老僧が言ったところで眼が覚めた。  さっそくその翌日に、恵増は旅姿を整え、播磨国の大願寺まで出かけて行った。  理由《わけ》を話して経蔵を覗かせてもらうと、果して『法華経』のうちの一巻に、件の二文字が焼けている箇所があった。  そこに新しい紙を貼りつけ、�瞻仰�の二文字を書き綴ると、たちどころに恵増は『法華経』を諳んずることができるようになった。  この話を、恵増が主上に語ったというのである。      二 「当人の与《あずか》り知らぬところで、そのような因縁が生じてしまう──まことに玄妙なる不思議の力があるものなのだなあ」  空になった杯を、簀子の上にもどしながら、博雅は言った。 「呪《しゆ》だな……」  低い声で、晴明がつぶやいた。  晴明の半眼は、まだ庭の方を眺めている。 「呪だと?」 「ああ」 「おまえ、また話をややこしくするつもりか──」 「そんなことはない」 「ある。晴明よ、おまえはいつも、おれが何やらわかったつもりになっていると、呪の話をして事《こと》をややこしくしてしまうではないか」 「ややこしくなどしておらん。人というものは、常に何ものかに呪をかけ、何ものかから呪をかけられて生きているものぞ」 「───」 「よいか、博雅」  晴明の眼が、博雅に向けられている。 「な、なんだ」 「飯《いい》を食べるおりにおまえは箸を使うであろう」 「う、うむ」 「それが、すでに呪をかけていることになる──」 「なんのことだ。おれにはさっぱりわからんぞ」 「たとえば、箸とは何だ?」 「な、な……」 「箸というのは、もとを正せば、ただの木の棒ではないか。犬や牛にとっては、それはただの木の棒さ。しかし、人がいったんその木の棒を握って飯を食《しよく》すれば、それはただの木の棒ではなく箸になってしまうのさ」 「む、む……」 「つまり、おまえは、毎日、食する毎《ごと》に、木の棒に箸という呪をかけていることになる」 「し、しかし」 「しかし?」 「それが、どうしたというのだ」 「どうもせぬ」 「何?」 「どうもせぬからすごいことなのだ」 「おまえが言っているのはつまり、我々が橋を渡れば、ただの木に橋という呪をかけていることになり、家に住めば、ただの木に家という呪をかけていることになるということではないか」 「そう言っている」 「それは、つまりそれは……」  博雅は、口ごもりながら言葉を捜している。  そして、ようやく、 「あたりまえのことではないか」  やっと博雅は言った。 「その通りさ、博雅。我々はあたりまえに呪の中に生きているのさ」 「な……」 「同じ椀という呪がかけられていても、ただの人が使った椀と、愛しいお方が使った椀とでは、また違う呪がかかっている。経典のある文字が覚えられぬというのも、そのもとをつきつめてゆけば、同じ呪の理《ことわり》の裡《うち》のことなのだ」 「晴明、おまえ、おれを騙《だま》してはいないか」 「騙してなどはおらぬ」 「いいや、騙した。おれは、ついさっきまでは何やらわかったような心持ちでいたのだが、今は何が何やらわからなくなってしまったではないか」 「それはすまん」  晴明は、博雅を見ながら微笑した。 「謝まってもらっても、嬉しくない」 「怒るな博雅」  晴明は、指先に持っていた杯を簀子の上に置いて、 「どうやら、客人が来たらしい」  そう言った。      三  のっそりと、屋敷の横をまわって、庭に入ってきたものがあった。  緑色の直衣《のうし》を着た、ずんぐりとした男であった。  大ぶりの田螺《たにし》のようなぎょろりとした眼をしている。鼻が低く、唇はない。ほとんど四つん這《ば》いになりそうなほど腰を前にかがめている。  耳が無い。  女郎花の群落を、両膝と両手で分けるようにしてその男は庭に入ってくるとそこで足を止めた。  女郎花の群落の中に突っ立っているその男に向かって、 「呑天《どんてん》──」  晴明が声をかけた。 「かまわぬから、庭へお通ししてくれ」  晴明の言葉が聴こえたのであろう。  呑天と声をかけられた男は、うなずくように、小さく頭を下げ、ゆっくりと背をむけて、入ってきたのと同じ速度で、姿を消した。 「あれは?」  博雅が訊いた。 「広沢の寛朝僧正さまの池に棲んでいた亀だ。縁あって、おれの屋敷にいる」 「式神《しきがみ》か」 「まあ、そういうところだ」  晴明がうなずいた時、屋敷の横をまわって、再び呑天が姿を現わした。  今度はひとりではない。  呑天の後方には、三人の人影がついてきている。  先頭が、浅葱色《あさぎいろ》の水干《すいかん》を着た、少年であった。  そのすぐ後ろに、黒い狩衣《かりぎぬ》を着た長身の男と、あちらこちらが擦り切れた小袖を着た子供が続いている。  先ほどの女郎花の中で立ち止まると、小さく頭を下げ、のそりのそりと呑天は姿を消していった。  女郎花の群落の中に、三人が取り残された。  黒い狩衣の男は、額にかかっている烏帽子《えぼし》の縁から顔の前面にかけて、四角く切った黒い布を垂らしているため、その顔は見えなかった。その布は、どうやら、薄い紗《しや》でできているものらしい。 「お久しぶりですね、露子姫」  晴明は、浅葱色の水干を着た少年に声をかけた。 「晴明、おまえ、今何と言った」  博雅が、驚きの眼を晴明に向けた。 「露子姫と申せば、橘実之《たちばなのさねゆき》殿の御《おん》娘ではないか──」  この夏に、晴明も博雅も、赤蚕蠱《せきさんこ》の一件で、露子姫とは顔を合わせている。 「そうだ。今、我々の眼の前におられるそのお方が露子姫さ」  晴明は言った。  博雅は、少年の姿をつくづく眺め、 「あっ」  小さく声をあげた。 「露子姫」  博雅の声に答えるように、浅葱色の水干を着た少年──露子姫は、 「お久しぶりね。晴明様、博雅様」  澄んだ声でそう言った。 「そちらのお二人は?」  博雅が訊ねた。 「けら男《お》と、黒丸よ」  露子は言った。  けら男というのは、露子が虫を集める時に使っている子供であった。  黒丸というのは、蘆屋道満《あしやどうまん》が作った赤蚕蠱から孵《かえ》った、蝶のごとき羽根を持った式神のはずであった。  見た眼は人間のなりをしているところを見ると、どこかへ羽根をたたんで隠しているらしい。 「黒丸か」  晴明が言った。 「眼が、普通の人間とは違うから、こうやって隠しているの」  言いながら、露子は晴明の庭を眺めている。 「よいお庭ね」  露子は言った。  まるで、野山の一画を、そのまま切り取って、ここへ移しかえたような庭であった。 「この前も言ったと思うけど、わたし、好きよ、こういうお庭」 「ありがとうございます」  晴明はうなずいて、 「何か、お急ぎの御用でも、この晴明にあったのですか」  そう訊ねた。 「急ぎじゃあないんだけれど、おもしろい用事よ」 「おもしろい?」 「晴明様のお好きそうなこと」 「はて──」  微笑しながら首を傾けてみせ、 「ともかく、こちらへいらっしゃいませんか。お話は、ここでゆるりとうかがいましょう」      四  博雅は、とまどっている。  露子姫が、素顔をそのまま見せて、屈託なく簀子の上に座している。  息のかかりそうなほど近くに、露子の素顔がある。  化粧《けわい》もしていなければ、眉も抜いていない。歯も黒く染めずにそのままだ。  男のようななりをしていた。  以前、この屋敷にやってきた時も、烏帽子をかぶって長い髪をその中に隠していた。  今日は鮮やかな浅葱色の水干を身につけ、長い髪を後方で束ねて背へ落としている。  肌の色の抜けるように白い、美しい少年──まさか、二十歳ばかりの娘が、素顔を見せて外を出歩くはずもなかろうという常識からすれば、見る者もこれを女とは見ないであろう。  しかし、女と知っている者から見れば、却《かえ》ってその姿は艶《あで》やかであり、首筋の細っそりした線などは匂い立つような色がある。そこに、博雅はとまどっているのである。  けら男と黒丸は、すでに退《さ》がっている。  簀子の上にいるのは、晴明、博雅、露子の三人だけである。  まるで、新しい楽しいおもちゃでも見つけたように、露子は博雅を見つめている。  その視線に耐えられなくなったように、 「し、しかし」  博雅は言った。 「なあに、博雅様」 「そ、そのようななりで外を出歩かれて、だいじょうぶであったのですか」 「もちろん。誰もわたしのことを女だなんて思いはしませんもの」  露子の眼は、悪戯《いたずら》っぽく博雅を見つめている。  露子は、簀子の上の瓶子を右手で持ちあげ、それに左手を添えて、 「いかが」  博雅の前にそれを差し出した。 「お、おう」  思わず博雅は杯を手に取ったが、その手が迷っている。仮にも殿上人《てんじようびと》の娘に酌《しやく》をさせてよいのかという思いが、博雅の手を落ち着かなくさせているのである。 「かまわぬではないか、博雅」  そう言ったのは晴明である。  晴明も杯を手に取って、 「いただこう」  それを差し出した。 「はい」  露子が、その杯に酒を注ぐ。  晴明が、その杯を唇にあて、酒を口に含む。  晴明の白い喉《のど》が動く。 「甘露……」  晴明が、微笑した。 「博雅様は?」  露子の眸《ひとみ》が笑っている。 「わ、わたしもいただきましょう」  博雅が差し出してきた杯にも、露子は酒を注いだ。  博雅が酒を飲むのを見はからってから、 「さて、露子姫。お話をうかがいましょう」  晴明が言った。  露子は、持っていた瓶子を簀子の上に置き、あらためて晴明を見やった。 「とても不思議なぶんぶんがいるのです、晴明様」 「ぶんぶん?」 「金色をしていて、よく光っていて、夜になると現われて、朝になると消えてしまうの」 「それを、ごらんになったのですか」 「見ました」 「どこで?」 「広沢の寛朝僧正様のところ」 「遍照寺ですか」 「ええ」  露子がうなずいた。      五  最初に、そのぶんぶんが飛んできたのは、五日前の晩であったという。  その晩──  遍照寺の明徳《みようとく》は、経を誦《ず》していた。 『涅槃経』である。  しばらく前から、眠る前に経を誦すのが明徳の習慣となっていた。  師である寛朝が、毎晩眠る前に経を誦しているので、自然に明徳もそうするようになったのである。 『涅槃経』と言っても、ひと晩で、眠る前のわずかな時間で全てを読むことができるわけではない。毎夜、少しずつ読んでゆくことになる。  自室に灯火を点《とぼ》し、その灯りで読む。  その晩もそうであった。  その不思議な虫に気がついたのは、その日読む分の、半ば近くまで読み進めてきた時であった。  横にある灯火に、きらきらと光るものが、ひとつ、ふたつ、舞っているのである。  その影が、時おり、明徳が読んでいる『涅槃経』の上にちらちらと映るので、それと気がついたのである。  見れば、小さな虫であった。  蠅ほど小さくはないが、虻《あぶ》よりは小さい。  しかも、それは、黄金色にきらきらと光っているのである。  灯火の灯りを受けて、たいへん美しい。 「はて──」  夏に、虫が灯火に集まってくるのは珍らしくないが、すでに秋は深まっている。めったに虫は飛んでこない。しかも、それはこれまで見たこともない虫であった。  見ている間にも、みっつ、よっつと虫は増えてゆき、いつの間にか百を超えて、もはや数えられる量ではなくなっていた。  そのまま、誦経《ずきよう》を終えて、気がついたらあれほどいた虫たちが、どこかへ消えてしまっていたのである。  その晩は、それで終った。  が、次の二日目の晩に、また同じことが起こったのである。  昨夜のことは、すっかり忘れていたのだが、やはり誦経が半ば近くになった時、昨夜と同じことが起こったのである。『涅槃経』の上に小さな影がちらちらするので眼をやると、灯火の周囲にまたあの黄金色の小さな虫が集まって、ぶんぶんと飛びまわっていたのである。  見ている間に、次々に黄金色の虫たちが集まってきて、夥《おびただ》しい数となった。  眺めている明徳の身体にも虫はたかり、衣の上を這いのぼり、また飛び立ったりする。  手で捕えてみれば、それは、小さな黄金虫《こがねむし》に似た虫であった。  奇妙に思い、明徳は、飛びまわっている虫たちを絹の布で払い、手で捕え、手近にあった竹の籠の中へそれを入れた。  翌朝になったら、ゆっくりそれを眺めてやろうと思い、その晩は、虫をそのままにして眠ってしまったのだが、朝になってみると、籠の中から虫の姿が消えていたのである。  三日目の晩も、四日目の晩も同様のことが起こった。  捕え、逃げぬように籠の中に入れておくのだが、朝になるといなくなっている。  ただの虫ではない。  本来であれば、寛朝僧正に相談をするところだが、生憎《あいにく》と僧正は数日前から丹波の方に出かけており、あと五日ほどは帰ってこない。  そこへ、たまたま顔を出したのが、橘実之であった。  法事があり、遍照寺まで何人かで足を運んできたのである。  これに、露子も同行していたのである。  明徳と実之は、昔からの顔なじみであり、気心が知れている。  明徳は、実之に虫のことを語った。 「ところで、露子姫は珍らしい虫に御興味をお持ちだとか」  かようなる虫を御存知かどうか、うかがってみては下されまいか。  このように明徳は言った。  別室に休んでいる露子に、実之は明徳から聴いた虫のことを語った。 「あら、おもしろいじゃない」  露子は、好奇心に満ちた、跳ねるような声をあげた。  この日は、実之も露子も、一同揃って遍照寺の庫裡《くり》のひとつに泊まることになっている。 「今夜、ぜひその虫を見てみたいわ」 「しかしおまえ、僧とはいえ、男子の部屋に女のおまえが入ってゆくなぞ許すわけにはゆかぬぞ」 「あら、男の方が女の寝床に通われるのならよくて、女は男の方のお部屋にゆくのだけでもいけないとお父様はおっしゃるの」 「しかし、露子や。そりゃあ理屈ってもんだ。世の中は理屈だけでは通らぬのだ。外聞てもんがある」 「外聞も何も、黙っていれば他の人にはわからないわ」  一度言いだしたら露子はきかない。  結局、露子に押しきられることとなった。  明徳の部屋に几帳《きちよう》を置き、露子はその陰に座して待つこととなった。  それでも、さすがにふたりきりというわけにはゆかず、露子の父実之も明徳の部屋に同座することになった。  夜──  籠を用意し、三人は息をひそめるようにして明徳の部屋で待った。  やがて、その時間がやってきて、いつもの通り、点《とぼ》した灯火の下《もと》で、明徳が『涅槃経』を誦し始めた。  始めは何事も起こらない。  明徳の誦経の声が、低く響くばかりである。  と──  いつの間にか、一匹の虫が灯火にからむように舞っていた。  小指の爪の先ほどの小さな金の粒が、きらきらと光りながら灯火にたわむれている。  見ている間に、それが、ふたつになり、みっつになり──  どんどんとその数を増してゆく。 「まあ、綺麗……」  几帳の陰からそれを見ていた露子が、小さく声をあげた。 「では、これを捕えまするぞ」  実之が、宙を舞っているその虫を一匹ずつ捕えては、籠の中に入れてゆく。 「お父様、籠の中に入れる時に、数をかぞえてちょうだい」  露子がそう言っていたので、捕えながらひとつ、ふたつと実之は虫の数を数えてゆく。  ようやく、全ての虫を籠の中に入れ終えた。 「何匹だったの、お父様」 「二百六十二匹だったよ」 「確かに?」 「ああ。数え間違えたりはしない」 「灯りと、その籠をこちらへいただけるかしら」  露子の言う通りに、几帳の向こうに虫の入った籠と灯りを、実之が持ってゆくと、それを受け取って、 「まあ、なんて綺麗なの」  露子が声をあげた。  蛍の二倍から三倍は明るい黄金色の光を放つ虫が、籠の中に入っている。竹と竹の透き間から、その光が洩れてくるのが、たとえようもなく美しい。 「ああ、これはぶんぶんのようね」  露子の声が聴こえる。 「全部同じぶんぶんに見えるけれど、よく見ると違うかたちのものもいるわ……」  そのうちに、 「お父様。申しわけありません。紙と筆と硯《すずり》を用意してくださるかしら」  露子が言った。  いずれも明徳の部屋に揃っている品であるので、すぐに露子の言ったものが用意された。 「まあ、おまえは肢《あし》のかたちが違うのね」 「こちらのおまえは、ちょっと羽根が大きいわね」  露子は、いちいち虫の特徴を書きとめているらしい。  だいぶ時間がかかった。  やがて── 「お父様。確かにおっしゃった通りよ、全部で二百六十二匹だったわ」  露子の声が聴こえてきた。  その後、几帳の陰から、低い小さな羽音をたてて、一匹ずつ、虫が飛び出てきた。  おーん。  オーン。  おーむ。  オーム。  羽音は、そのように聴こえている。 「これ、露子や。せっかく捕えた虫をどうして逃がしてしまうのだね」 「どうせ、朝には消えてしまうのでしょう。それなら、今、逃がしてあげて、虫の飛んでいるのを眺めて楽しみましょうよ」  露子は言った。      六 「それで、虫は?」  晴明が訊いた。 「一匹だけ籠に残し、わたしの枕元に置いて、それを眺めながら寝たのだけれど、朝起きた時には消えてしまっていたわ」  明徳の部屋にいた虫たちも、いつもと同じように、朝には消えていたという。 「朝というのはつまり──」  博雅が言うと、 「今朝のことよ」  露子が言った。  今日の昼にもどってきて、父の実之は自分の屋敷に帰っていった。  身の回りの者だけになったので、男の姿になりをかえて、黒丸とけら男を連れて、しばらく前に屋敷を抜け出してきたのだという。 「で、虫のことを色々、その時にお調べになったのですね」 「ええ」  露子は、懐《ふところ》から一枚の紙片を取り出した。 「これに、それが書いてあるわ」 「見せていただけますか」 「そのつもりで持ってきたの」  露子から受け取った紙片を、晴明はそこで開いた。  横から、博雅も中を覗き込む。  そこには、次のようなことが書かれていた。  二百六十二匹  百十六種 「これは?」  博雅が訊いた。 「ぶんぶんが、全部で二百六十二匹いたっていうことね」  露子が答える。 「百十六種というのは?」 「色や、かたちや、脚の数がそれぞれ違うのよ。似ているけれど、よく見たら少しずつ色々なところが違っているの。同じものもいて、違うものもいる。それを数えてみたら、百十六種類いたっていうことよ」  そのことは、すでに博雅も聴いている。  次には、  脚が四本のもの 二十一匹  と書かれている。 「それは、読んでの通りよ。脚が四本のものが、二十一匹いたっていうこと」 「脚は四本で、他は違うと?」 「いいえ、博雅様、それは、脚が四本あることだけじゃあなくて羽根のかたちや色まで全部同じものが二十一匹いたっていう意味よ」 「では、次だ」  羽根が四角くて脚が三本のもの 九匹  羽根が歪《ゆが》んでいて脚が二本のもの 九匹  羽根の黄金色がやや薄くて脚が二本のもの 八匹  博雅が、その紙片に書かれていることを、声に出して次々に読んでゆく。  そして、いよいよ最後の行になって、  六十五匹 「ここには、六十五匹としか書いてないが、どういうものが六十五匹いたのですか」 「その六十五匹というのは、同じぶんぶんではなくて、全部が全部、どのぶんぶんとも違うものの数のことよ」 「え?」 「その六十五匹は、一匹ずつがどれとも似てないの。全部別べつで、どこがどう違うのか、もう書くのもややこしくなったので、その数だけ書いたのよ」  つまり、六十五種類、六十五匹の虫がいるということであると露子は説明をした。  百十六種類のうち、一個体しかいない黄金虫が六十五種類いるということになる。露子の書いたものを要約すると、次のようになる。  二十一個体いるもの 一種類  九個体いるもの 二種類  八個体いるもの 一種類  七個体いるもの 三種類  六個体いるもの 三種類  五個体いるもの 三種類  四個体いるもの 四種類  三個体いるもの 十二種類  二個体いるもの 二十二種類  一個体いるもの 六十五種類       合計 二百六十二個体          百十六種類 「なるほど、そういうことか」  晴明はうなずいて、 「露子姫、これは皆、あなたがお調べになったのですか」  露子に問うた。 「ええ。いつもやっていることだから。でも、几帳の陰に黒丸を呼んで、黒丸にも少し手伝わせたけど──」 「御立派なものです。称賛に値《あたい》するお仕事ですね」 「晴明様は、これをおもしろがって下さるの?」 「ええ。たいへんおもしろいものです」 「では晴明様、ぜひこの謎なぞを解いて下さらないかしら」 「謎なぞですか」 「ねえ、晴明様は、あちらのお寺とはお親しいんでしょう」 「ええ。寛朝様も明徳殿も、よく存じあげておりますよ」 「いきなりお出かけになっても大丈夫なのでしょう」 「ええ、まあ──」 「だったら、今夜、遍照寺へ行きましょう──」 「しかし、お帰りにならなくては、お屋敷の方が心配なさるのではありませんか」 「あら、そのくらい、晴明様なら色々と手を御存知でしょう」 「ないことはございませんが」 「だったらまいりましょう。今出かければ、充分間に合うでしょう」  好奇心に満ちた眸で、露子は晴明を見た。 「博雅様も、ぜひ御一緒に──」  露子が、博雅を見やった。 「どうする、博雅」  微笑しながら、晴明は博雅を見た。 「む、むう……」 「おれは、黄金色の虫が、きらきらと灯火にたわむれる様を見てみたいのだが……」 「おれも、それはぜひ見てみたい」 「なれば、手を考えねばな」 「手?」 「露子姫が一緒に行ける手をさ」      七 「お髪《ぐし》を一本いただけまするか」  晴明が、露子に向かってそう言ったのは、紙の人形《ひとがた》に、筆で�露子�と書き記してからであった。 「それでは、これを」  露子が抜いた一本の髪を、晴明は丁寧に人形に巻きつけ、それがほどけぬよう、絹の糸で縛った。 「では、これに、三度、息を吹きかけていただけまするか」  晴明の言う通り三度息を吹きかけると、その人形は晴明の手を離れ、ふわりと宙に浮いたかと思うと、もう、露子そっくりの姿となって、簀子の上に立っている。 「まあ」  露子が驚きの声をあげた。  晴明は、庭にいるけら男と黒丸を見やり、 「この人形の露子姫を、お屋敷までお連れしてくれ」  そう言った。 「明日の朝まで皆を騙せればそれでよい。くれぐれも、この姫を水に近づけたり、火に近づけたりしてはならぬ。簡単な受け答えはできるが、自分で何かを判断して決めるというようなことは、この人形の姫にはできぬから、そのあたりは、おまえたちが側《そば》についていて、按配よくやるのだよ」  けら男は、口を丸く開いたまま、返事ができない。 「けら男、わかったの」  本物の露子が声をかけると、 「わ、わかりました。大丈夫です、晴明様」  ようやくけら男は大きく頭《かぶり》を振って、うなずいた。 「さて、これで準備はできた。遍照寺へゆこうか」 「おう、ゆこう」  博雅がうなずくと、 「まいりましょう」  楽しそうに露子姫が言った。  そういうことになったのであった。      八  晴明と博雅が、少年の姿をした露子をともなって寺を訪れると、 「これはこれは博雅様、晴明様──」  明徳は喜んで三人を迎え入れた。  すでに夜になっていた。  自室へ三人を迎え入れてから、ようやく明徳は、その少年が誰であるかを知ったのである。 「こちらのお方が、どなたかわかりますか」  晴明に問われ、 「はて──」  しげしげと少年を見つめてはみるものの、誰かまではわからない。どこかで見たような気がしないでもないといった様子なのだが、明徳にしても、これまで正面から近々と露子の顔を見たことはないのである。 「わたくしです」  少年が声を出した時、 「あっ」  と明徳は声をあげ、 「そのお声は──」  その先を晴明は言わせなかった。 「露丸と申しまして、わたしの知り合いの御子息です」  晴明がそう言うと、ようやく何事か呑み込めたように、 「な、なるほど、そういうことでござりましたか」  明徳はうなずいたのであった。 「今日、おうかがいしたのは、わたしもあの黄金虫を拝見したいと思いまして」 「おう、あ、あの黄金虫の件で」 「はい。露丸から謎解きを頼まれましてね」 「では、晴明様には、すでにあれがどういうものであるか、もうおわかりで──」 「見当はつけておりますが」  晴明が言うと、 「おい晴明、そんなことは、今、初めて耳にしたぞ。わかっているのなら、直々《じきじき》に教えてくれてもよいではないか」  博雅が言った。 「いえ、博雅様。わかっていると申しあげたのではありません。見当はつけていると申しあげたのです」  他人がいる時、博雅に対する晴明の口のきき方は丁寧なものになる。  明徳に視線をもどし、 「つきましては明徳殿、紙を一枚、拝借できますか」  涼しげな表情で晴明は言った。      九  明徳の誦経が始まった。  晴明、博雅、露子の三人は、明徳の後方に座して、静かにその時を待っていた。  いつものように、灯火がひとつ。  油の燃える臭いが、部屋の暗がりの中に溶けている。低い誦経の声が、ゆるく部屋に響いている。  どれほどの時間がたったろうか。 「来た……」  低い、晴明の囁《ささや》き声があがった。  それとほぼ同時に、部屋の中央の天井近くの闇の中に、ふわりと、黄金色に輝くものが出現した。  それが、宙を舞いながら灯火に向かって近づいてくる。  灯火の灯りを受けて光っているのではなかった。それは、自ら黄金色の光を放ちながら、灯火に向かって飛んでゆくのである。  最初の一匹が、灯火の炎にたわむれるように舞いはじめた。  と──  次の一匹が、ふいに空中に出現した。  ひとつ、  ふたつ、  みっつ。  虫たちは、いずくからともなく部屋に入ってきて、空中に出現し、灯火に向かって飛んでゆく。いつの間にか、幾つもの虫が、きらきらと黄金色をきらめかせながら、灯火にたわむれている。 「綺麗……」  露子が、小さく溜め息のような声をあげた。 「美しい……」  博雅もまた、囁くように讃嘆の声をあげた。 「なるほど、みごとなものだ」  晴明がつぶやく。  しばらく、三人は無言でその虫たちが灯火にたわむれる様を眺めていた。  やがて── 「そろそろ、よろしゅうござりまするか」  晴明が、ゆっくりと腰をあげた。  膝立ちになって、ひと膝、ふた膝、灯火に向かってにじり寄り、晴明は宙を飛んでいる黄金虫の一匹に右手を伸ばし、ひょいとそれを掴《つか》み取った。  捕えられた虫は、蛍のように晴明の手の中で光っている。  それを、右手の人差し指と中指でつまみ、 「ほう……」  灯りにかざした。 「これは、脚が四本ある虫ですね。露丸様がお調べになったところでは、一番数が多かった分ですね」  言いながら、晴明は、懐に手を差し込んで、しばらく前に明徳から渡された白い紙片を取り出した。  左手にその紙を載せて、捕えたばかりの黄金の虫を握っている右手で、ぽんとその紙を叩いた。  叩き終えた時には、すでに晴明の右手の指先に、虫はいない。  右手の人差し指と中指──そろえた二本の指先が、紙の上に載っている。  晴明は、口の中で小さく呪を唱えている。  ほどなく指を離し、上から紙片を覗き込んだ。 「ははあ、虫の正体がわかりましたよ」  晴明は言った。 「わかったか!?」  博雅と露子は、晴明の横にならんだ。 「おう」  博雅が、声をあげた。  その時には、誦経をやめて、明徳も晴明の傍まで近づいてきていた。 「御覧下さい」  晴明が持った紙を、明徳も覗き込んだ。  そこには、  �無�  という文字が書かれていた。  さっきまで、何も書かれていなかったはずの紙である。 「これは!?」  明徳が声をあげた。 「これが、四本脚の黄金虫の正体ですよ」 「この無という文字がでござりますか」  明徳が訊く。 「ええ」  晴明がうなずいた時、皆の見ている前で、紙の上から、ふうっ、と�無�の文字が宙に浮きあがった。  そして──  ふわりとまた、黄金虫に変じて、それは灯火にたわむれはじめたのである。 「どういうことでしょうか、晴明様──」  明徳が言った。 「説明する前に、少し、お聴きしたいことがあります」 「何でしょう」 「経蔵はどちらでしょう」 「本堂の東側にござりますが」 「では、そこまで御案内いただけますか」 「もちろん」  明徳は、自室の灯火の点った灯明皿の載った台を手に持って、部屋を出た。  その後に、晴明、博雅、露子が続いた。  虫たちも、一緒に灯りにたわむれながらついてくる。  経蔵の中に入ると、そこにある巻子《かんす》を、一巻ずつ灯火の中で晴明が調べはじめた。 「おう、あったぞ」  晴明は、そのうちの一巻を取りあげ、結んであった紐《ひも》を解いて、中を開いた。 「やはりそうか」  晴明がつぶやいた。 「何がそうなのだ、晴明よ」  博雅が、焦《じ》れたように言った。 「これさ」  晴明が、皆に見えるよう、灯火の灯りの中に、その巻子を広げてみせた。 「それは!?」  いぶかしげな声をあげたのは、明徳であった。 「晴明様、それは『般若経』でござりますが、文字が書かれておりません」 「ええ、逃げ出したのですよ」 「文字が?」 「そうです。この灯りの中で舞っている虫は、どれもこの『般若経』の中から抜け出してきた文字だったのですよ」 「───」 「『般若経』には、本文全部で二百六十二文字。そのうち、一番多く使われているのは�無�という文字で、全部で二十一文字」  晴明が言うと、 「なんと!」  博雅は声をあげた。 「この『般若経』を、これまでお使いになっていたのはどなたですか」 「寛朝様です。いつも眠る前にお読みになられていたのが、この『般若経』でした。丹波へゆかれる時に、寛朝様がこの経蔵にもどしてゆかれたのです」 「文字は、寛朝様御自身がお書きになられたのですね」 「そうです。寛朝様が写経されたものです」 「この虫が現われたのは、ちょうど寛朝様がお出かけになられた日なのではありませんか」 「そうです。ああ、その通りです、晴明様」 「毎夜、寛朝様に読まれていた『般若経』の文字が、読む人がいなくなった淋しさから、明徳殿の誦経する声が響くたびに、自分のことを読んで欲しいとせがんで、やってきていたのだろう」 「そういうことであったのですか」  明徳は深くうなずいた。  寛朝が自ら書き、毎夜これを読んでいたことを思えば、それもあり得ることであろう。  晴明が、口の中で、小さく『般若経』を唱え始めた。  すると──  それまで灯火にむらがっていた虫たちが、次々に飛来して、晴明の読経《どきよう》する声に合わせ、白紙の巻子の中に飛び込んでいった。飛び込むそばから、虫たちは一文字ずつ文字となって、晴明が唱え終えた時には、『般若経』一巻が、もとにもどっていたのである。  その巻子を巻いて、 「さあ、この『般若経』を、寛朝様がもどってくるまで、毎夜読んでやって下さい。さすれば、この怪異は、二度と起こらぬでしょう──」  それを、明徳に渡した。 「あれを見ることができないのは、ちょっと淋しい気もいたしますが──」  晴明は、そう言って微笑した。 [#改ページ]   鬼小槌      一  しんしんと、雪が降りてくる。  天から降りてきた雪で庭は、一面、白い。  優しい白であった。  雪は、あらゆるものの上に降り積もり、地上の何もかもを、清浄な天の白で覆ってゆく。  天地の全ての物音を、雪が奪ってしまったようであった。  風はない。  あとからあとから雪は天から降りてくる。  その降りてくる雪を凝《じ》っと眺めていると、動いているのは、雪ではなくこの大地のような気さえしてくる。宙に静止した、何万、何億もの雪の中を、この大地がゆっくりと上昇してゆく──その大地の上昇してゆく速度を、見る者が雪の降りてくる速度と思っているのかもしれない。  雪を眺めていると、そんな思いも心に浮かんでくる。 「まことに不思議なものだなあ、晴明よ」  溜め息のように、源博雅《みなもとのひろまさ》は言った。  安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷──  簀子《すのこ》の上に座して、博雅と晴明は、雪を眺めながら酒を飲んでいる。  それぞれ、傍に火桶《ひおけ》を置いて、その火で暖をとりながら話をしているのである。  晴明も博雅も、足には絹の襪《しとうず》を履いていた。  襪というのは、二枚の足形の布を縫い合わせて作られた、指股のない足袋である。上部にある二本の紐を結んで足に留めるようになっている。 「何が不思議なのだ」  切れ長の眼で、晴明は博雅を見やった。 「この雪がだ」 「雪?」 「この庭を見よ」  博雅は、感に堪えぬといった表情で、庭へ視線を向けた。  庭の松にも、楓《かえで》や桜の枝にも、その細い枝先までも、雪はふくよかに積もっている。  立ち枯れたままの女郎花《おみなえし》の上にも、庭石の上にも雪が降り積もってゆく。 「この庭だけではない。都中に、今、これだけの雪が降り積もっているのだぞ──」 「うむ」 「何と不思議なことではないか」  博雅は、自分の言葉に酔ったように、杯を口に運んだ。 「晴明よ」 「何だ」 「雪は、どれだけ柔らかそうに見えようが、重いからこそ、降ってくるのだろう?」 「うむ」 「その重い雪が、これほどたくさん、いったいこれまで天のどこにあったのかと、おれは考えていたのだよ」 「うむ」  晴明は、静かにうなずきながら、紅い唇に酒を含む。 「昨日──いや、今朝までは、おまえも知っているだろうが、あんなに空は晴れていたではないか。それがどうだ──」 「───」 「いったいいつの間に、これだけの雪が天のどこに用意されてしまったのだろう」  博雅は、杯を簀子の上に置き、火桶に手をかざし、 「天のどこでもよいが、どうして、これまでの間に、雪は一度に落ちてこなかったのだ」 「博雅よ──」  晴明は、今度はその唇に笑みを含み、 「おまえは、おもしろい漢《おとこ》だな」 「おもしろい?」 「ああ、おもしろい」 「だから、どうだというのだ」 「よいか、博雅よ。雪は、たしかに天で作られて落ちてくるものではあるが、これだけの雪が天に作られてから、その後に落ちてくるのではないぞ」 「では、どうやって落ちてくるのだ」 「雪は、作られるそばから、落ちてくるのさ──」 「ほう?」 「おまえが今雪と見ているものは、まあ、言うなれば呪《しゆ》だ」 「呪?」 「呪だ」 「おい、晴明。おまえ、また、おれを騙そうとしているのではないか」 「騙そうとなどしていない」 「本当か」 「まあ、聴けよ、博雅」 「う、うむ」 「雪とは何だ」 「な、な……」 「雪とは、水だ」  博雅が言う前に、晴明が言った。 「う、うむ」  博雅がうなずく。 「春に、雪が溶けて水となり、地に沈み、あるものは川となり池に注ぎ、海に注ぐ──」 「うむ」  博雅が、またうなずく。 「この水が、天の気に溶ける」 「大気に?」 「器《かわらけ》に水を入れて、放っておけば、二日か三日で、なくなるであろう」 「うむ」 「この水はどこへ行ったと思う?」 「どこへ?」 「天の気に溶けたのさ」 「───」 「その気が、天に凝《こ》って、雲となり雨となってまた地に落ちてくる。これが、ある時は雪となる」 「うむ」 「その時その時で、かたちやその在りようを変えはするが、その本然《ほんねん》は水よ」 「───」 「その水が、ある時は呪によって雲となり、雨となり、雪となるのさ」 「しかし、そういうことで言うなら、おまえが本然と言った水もまた呪なのであろうが──」 「その通りさ、博雅。おれが本然と言った水そのものもまた、呪であり、雲や雪が水の本然であると言ってもいい。水はどのような形態《かたち》をとろうとも、いずれも等しく本然であり、そして、呪なのだ──」 「それは、つまり晴明よ。この天に無尽蔵に雪のもとがあるというわけではないということだな」 「そういうことだ」 「雪のもとたるものは、天にもあり、この大地にもあり、どこにでもあるということではないか」 「うむ」 「つまり、この雪も雨も水も雲も、どこかにその大もとがあるということではなく、それぞれが互いに互いのもとであり、互いが互いに生み出されたもので、この天地の間を巡っているものということになる」 「その通りだ、博雅よ」 「ようするに、おれは今、この天地を巡る呪を見ているということだな。雪を見るということは、呪の巡りを見るということではないか」 「凄いぞ、博雅。まさに、雪を見るというのは、おまえの言う通りのものさ」  晴明の声には讃嘆の響きがあった。 「呪とは、巡るものだ」  晴明は、言いながら、雪に覆われた庭に視線を放った。 「どのような呪であれ、それは常にそのかたちを変え続けてゆく。何ものであれ、同じ姿を常にこの地上にとどめおけるものではないとは、かの釈尊も言っておられることではないか──」 「珍らしいな、晴明。まさか、ここでおまえが仏法の話をするとは思わなかった」 「仏法も呪も、煎じつめれば、その理《ことわり》は似たようなものだからな」  晴明は、すました顔で言った。 「しかし、晴明よ」 「なんだ」 「今、おれはおまえと雪の話をして、何やらわかったような気分にはなったのだが──」 「どうした」 「最初にこの雪を眺めて、つくづく不思議に思ったあの心もちというか、驚きというか、そういうものが、なんだかどこかへ行ってしまったような気もするのだよ」 「ほう」 「雪もまた巡る呪のひとつの在りようであるというのにはおれも驚かされたが、はじめに雪を眺めながらつくづく不思議に思ったというのもまた、おれの正直な気持ちなのだよ」 「不思議な漢《おとこ》だなあ、博雅」  しみじみと晴明は言った。 「おれのどこが不思議だ」 「よいか、博雅。雪を眺めるというのは巡る呪を眺めることだとは、おれが言ったのではないぞ。おまえが言ったのだ」 「そうだったか……」 「これは、そこらの坊主や陰陽師でもなかなか言える言葉ではない。この天地の理《ことわり》に関わることを、みごとにおまえは言ってのけたのだ」 「そうなのか」 「そうさ。しかも、それに気づいていない。それで、やはり、雪は不思議だと溜め息をついている。そういうおまえが、おれには雪以上に不思議に思えるのさ──」 「ふうん」 「おまえのそういうところが、おれには好もしい」  小さな笑みが、晴明の紅い唇の端に点《とも》った。 「おれをからかうなよ、晴明」 「別にからかってはおらん」 「本当か」 「おまえはよい漢だと言っているのさ」 「やはりからかっている」 「そんなことはない」 「いいや。おまえがおれのことをよい漢だと言う時は、たいていおれをからかっている時だ」 「口が尖《とが》っているぞ、博雅」 「まさか」  言いながら、博雅が口に手を持ってゆくと、晴明が、 「よい漢だなあ、博雅」  そう言って微笑した。  博雅は、口から手を離し、 「おれをからかうなよ」  今度は、本当に唇を尖らせた。  その時には、もう晴明は右手の指先に酒の入った杯を持ち、それを口に運びながら庭の方へ眼をやっている。 「よく降る」  ぽつりと晴明は言った。  晴明の視線を追って、庭の雪に眼をやった博雅が、 「なあ、晴明──」  低い声で言った。 「何だ」 「このような雪の日には、おれはいつもあの白比丘尼《しらびくに》殿を思い出してしまうのだが、あの方は、お元気でおられるのであろうか」 「博雅よ。あの方は、人魚の肉を喰べて不老不死となられたお方ぞ。めったなことで御病気になることはない」 「いや、違うのだよ晴明。あの方のお身体のことを言っているのではない。あのお方のお心のことをおれは言っているのだよ」 「わかっている」  晴明は、まだ庭に降り積もってゆく雪を眺めている。 「今、どこでどうしておられるのかはわからないが、誰の上にもこの雪はそそいでいるのだろう」 「───」 「白比丘尼殿の上にも、おそらくこの雪は降っているのだろう。白比丘尼殿だけではない。分かれて行方の知れぬままになっているどのようなお方の上にもこの雪が注いでいるのかと思うと、この雪が、何だか急に愛しくも思えてくるではないか──」  晴明が、視線をもどすと、博雅の顔がそこにあった。 「おそらくは、どこにどうしておられるかはわからぬが、平実盛《たいらのさねもり》殿の上にも、この雪は降っているのだろう」  博雅が言った。 「おう、左衛門府の平実盛殿か」 「会ったことがあるのか、晴明」 「いや、顔は何度か見ているが、話を交したことはない。たしか、大尉《だいじよう》であったか──」 「うむ。一年ほど前に大尉に任ぜられたのだが──」 「ひと月ほど前に、夜、お出かけになったまま行方がわからなくなったという話だな」 「衛門府の藤原中将《ふじわらのちゆうじよう》殿には、おれも世話になることがあってな。なんとかお力になってやりたいのだが──」 「中将殿が、可愛がっておられたらしいな」 「そうなのだよ、晴明」  言われた晴明が、ふいに、何か思い出したように、 「その中将殿のことだが、博雅、おまえは何も耳にしてはいないのか」  声をひそめて言った。 「何のことだ」 「御悩《ごのう》らしい」 「中将殿が御病気だと?」 「今、都に流行っている、あれさ」 「猿叫《えんきよう》の病《やまい》か」 「うむ」  晴明がうなずいた。  猿叫の病というのは、このふた月ほど前から、都に流行りはじめた病で、熱が出て、身体のあちらこちらが痛む病である。  腰や背骨の関節が痛み、高い熱が出てうなされたりする。  もっと重くなってくると、立ちあがることもできなくなり、寝たきりとなって、夜半になると、 「おきゃあ」  痛みのあまり、寝床の中で声をあげる。  これが、猿の叫ぶ声に似ていることから誰いうともなく、猿叫の病と言われるようになったのである。 「熱い、熱い」  と言いながら、 「水を」  しきりに水を飲みたがる。  癒《なお》る者もいるが、何人かはこの病気でこの世を去ってゆく。  この猿叫の病に、藤原中将がかかっているというのである。 「しかし、晴明よ。どうしておまえはそのことを知っているのだ」 「そのことだがな、博雅」 「うむ」 「実は、来たのだ」 「来た?」 「おまえがやってくる少し前にな、藤原中将殿のお屋敷から使いの者が来たのだよ。雪がまだ降りはじめる前さ」 「ほう」 「四日ほど前からこの病にかかり、だいぶ弱っておられるらしい。薬を飲んでも効き目がなく、なんとかしてくれと、おれのところへ来たわけさ」 「で、どうするのだ」 「ゆくとは答えておいたのだが、この雪だからな」 「うむ」 「むかえの車を、夕刻にはよこすと言っていたから、来るとするなら、もう一刻ほどもすれば、やってくるだろう」 「そういうことだったか」 「しかし、博雅よ」 「何だ、晴明」 「おまえと、中将殿がお知り合いというのはありがたい」 「なんのことだ」 「ああいう堅苦しい屋敷は苦手でな。おまえがもしも一緒に行ってくれるなら、おれも心強いというわけなのさ」 「そうか」 「どうだ、一緒に行かぬか」 「む……」 「ゆこう」 「む」  博雅が、口を開きかけたところへ、晴明がまた声をかける。 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      二  はたして、夕刻──  晴明の言ったように、藤原中将の屋敷からむかえの牛車《ぎつしや》が来た。  門の外である。  靴《かのくつ》をはき、それで雪を踏み締めながら、晴明は博雅と外へ出た。  雪は、まだやんでいなかった。  晴明と博雅が身に纏《まと》っているものの上にも、すでに雪は降り積もっている。  夕刻の青い闇の中に、雪景色が広がっていた。  燃える松明《たいまつ》を手にした従者たちが四人、雪の中に立って、晴明と博雅を待っていた。  ふたりが牛車の中をのぞくと、車の中には、暖をとるための火桶が置かれていた。 「おう」 「こいつはありがたい」  晴明と博雅は、言った。  その時── 「おい、晴明──」  ふたりの背後から声がかかった。  晴明と博雅がふり返ると、少し離れた雪の中に、ひとりの老人が立っていた。  ぼうぼうとのびた、蓬《よもぎ》のような白髪。  雪の夕刻だというのに、ぼろぼろの水干《すいかん》ひとつを身につけているだけである。  炯炯《けいけい》と光る黄色い眸《ひとみ》。  皺だらけの顔。  蘆屋道満《あしやどうまん》であった。 「これは、蘆屋道満殿ではありませんか」 「久しぶりじゃ」  ぼそりと、道満が言った。  道満の蓬髪《ほうはつ》の上にも、雪は降り積もっていた。 「何か、この晴明に御用でござりましたか」  晴明が言った。 「藤原中将のところへ、ゆくつもりなのであろう」 「はい」 「なれば、それは、もともとはこのわしの分じゃ」 「これが、あなたさまの分?」 「何が出るにしろ、それは、この道満と半分ずつじゃ。このこと、覚えておけ──」 「覚えてはおきますが、どういうことでござりまするか」 「ゆけばわかる」  道満は、そう言って背を向け、 「しばらく、見物させてもらう。首尾よくゆけば、わしの方から、半分もらいにゆこう」  歩き出していた。  雪の中から足を引き抜きながら去ってゆくのだが、なんと、道満は素足であった。  晴明と博雅が牛車に乗り込んだのは、道満の姿が見えなくなってからであった。      三  藤原中将は、寝床の中で声をあげている。 「熱《あつ》や……」 「熱や……」  半分意識はない。  身体中に汗をかいており、夜具をめくればそこから湯気が立ち昇る。  手で素肌に触れると、これが人の肌かと思えるほどに熱い。 「痛や……」 「痛や……」  背や腰、身体中の骨が痛み、眠りながら何度も身体の位置をかえ、常にもじもじと身体を動かしている。  そして、突然、 「おきゃあっ!」  眼をむいて、高い声をあげるのである。  家の者が、枕元にいるが、どうすることもできない。  身につけているものが、すぐに汗でびっしょりになるから、それをかえ、 「お気を確かに──」 「大丈夫でござりまするか」  声をかけてやるくらいである。  与えたどのような薬も効き目がない。  しばらく前まで熱がっていたかと思うと、急に、 「寒や……」 「寒や……」  今度は寒いと言って、身をがたがたと震わせるのである。  そして、それまで閉じていた眼を開き、 「おきゃあっ」  また、叫ぶのである。  晴明と博雅が、やってきたのは、そういう時であった。  几帳の陰で横になっている中将の枕元に座して、晴明は静かに呼吸を整えた。  灯火が四つほど点されており、中将の額の汗も乱れた髪も見てとれる。  中将の姿を見やって、 「ほう」  晴明が声をあげた。 「ははあ……」  晴明は何事か納得したように自らうなずき、 「かようなことでござりましたか……」  そう言った。 「これは、薬も特別な修法《ずほう》も必要ござりませぬな」 「おい、本当か、晴明──」  晴明の横に座した博雅が言った。 「ごらん下され、博雅さま」  晴明が言った。  他人がいる時には、博雅に対する晴明の口調は丁寧になる。  うながされて、博雅は中将を見やった。  しばらく、中将を見やっていた博雅は、ようやくそれに気がついたらしく、 「おう……」  小さく声をあげた。 「中将殿の御様子が……」  博雅の声に、一同が中将を見やれば、さっきまでとは、その様子がだいぶかわっていた。  しばらく前までは、身体を左右によじっていたのだが、もう、身体を動かしてはいなかった。 「寒や……」 「熱や……」 「痛や……」  と声をあげていたのが、今はその唇は閉じられ、静かに寝息をたてているばかりである。  髪は乱れ、顔もやつれてはいるが、それをのぞけば、常の寝姿とあまりかわることはない。 「おきゃあ」  と、声をあげることもない。  藤原中将は、眼を閉じて静かに眠っている。  額に汗の玉が浮いてはいるが、それはもう増えることはなく、静かにひきはじめているようであった。  晴明が、この枕元に座したとたんのできごとであった。 「いったい、何をしたのだ、晴明──」 「何もまだいたしてはおりません」  晴明はそう言って、その視線を中将の向こう側へむけている。  ちょうど、晴明は、仰向けに寝た中将の右肩に近い場所に座しているのだが、晴明の視線が見ているのは、反対側の中将の左肩に近い枕元であった。  その枕元にむかって、まるでそこに誰かがいるようにうなずいてみせ、 「はい。見えております」  何もない空間にむかって晴明は言った。 「おい、何のことだ、晴明」  博雅が訊ねても、晴明はそれに答えず、 「ははあ、額のそれが原因でござりまするな──」  晴明は片膝立ちになって、懐から一枚の紙片を取り出し、小さく口の中で呪を唱えながら、左手に持ったその紙片に、軽く右手の指先で触れた。  その紙片を右手に持ち、中将の向こう側に身を乗り出して、晴明は右手に持った紙片で宙をぬぐってみせた。  その途端──  中将の枕元に、ゆっくりと人影が姿を現わした。  それは、すぐにまぎれもない本当の人の姿となった。  その人は、水干を着て、右手に小槌《こづち》を握り、晴明を見つめていた。 「おう」  一同が声をあげた。 「これは、平実盛殿にてありつるよ」 「実盛殿じゃ」 「実盛殿じゃ」  まさに、そこに座していたのは、このひと月ばかり、行方の知れなかった平実盛であった。 「おう」  と次に声をあげたのは、当の実盛であった。 「では、皆さまにはこのわたしが見えまするのか。見えまするのか」  声をあげて泣きはじめた。      四 「はい」  晴明にうながされて、平実盛が口を開いたのは、それからほどなくであった。 「その晩、女のもとに通う途中で、私は鬼に出会ってしまったのでございます」  そう言ってから、実盛は静かに語り出した。      五  平実盛が、西の京に住む女のもとに出かけたのは、ちょうど、ひと月ばかり前の夜のことであった。  ひとりで出かけた。  牛車に乗るわけでもなく、供の者がいるわけでもない。  徒歩《かち》である。  大尉といっても、六位であり、それほど高い官位ではない。  車などを使うよりは、ひとりで歩く方が身軽で、また、そういうことが好きな男であった。  四条で朱雀《すざく》大路《おおじ》を渡り、しばらく歩いたところで、前方から幾つかの灯りが近づいてくるのが見えた。  松明の灯りである。  月夜の晩であり、実盛は灯りを持っているわけではない。  誰かと出会うのは面倒であり、もしも盗賊なら、いくら衛門府の人間とはいえ、ただ一人で彼らと悶着をおこすわけにいかなかった。  隠れてやり過ごそうと、近くに大きな松が生えていたので、実盛はその陰に身をひそめた。  ところが、やってきた連中を見て、実盛は驚いた。  人ではなかったのである。  鬼であった。  ひとつ目の鬼。  腕がたくさんある鬼。  足はなく、六本ばかりの身体から生えている手で歩いてくる鬼。  一本足で、ぴょんぴょんと踊りながら歩いてくる鬼。  そういう鬼たちばかりが、十人ほど一団となって、こちらへ向かって歩いてくるのである。  実盛はもう、生きた心地もしない。  早く通り過ぎてくれるのを念じていると、ふいに、松の樹の前で鬼たちが立ち止まった。 「おう、何やら匂うぞ」 「うむ、匂うな」 「匂う」 「匂う」  鬼たちが、通りの中ほどに立ちどまって、鼻をくんくんとやりはじめた。 「人の匂いではないか」 「人だ」 「人がおる」 「どこじゃ」 「どこじゃ」  鬼たちが、ばらばらと四方に散ってあたりを捜しはじめた。  実盛は、松の陰に身を縮こめて、ぶるぶると身を震わせていると、 「ばあ」  いきなり、大口をあけたひとつ目の鬼の顔が覗き込んできた。 「見つけた」  襟首を掴まれて、たちまち通りの中央に、実盛はひき出されてしまった。 「おう、こやつめ、我らの姿を見てあの松の陰に身を隠したとみゆるが、ただの人ではないか」  ひとつ目の鬼が言った。 「つまり、我らの姿が見えたということぞ」 「これは不思議な」  鬼たちがそう言っていると、六本の手で這う鬼が、 「おい、おまえ、日頃何かを信心しておるのか」  訊ねてきた。 「は、はい。信心というほどのものかどうかはわかりませぬが、日頃、おりに触れては、六角堂の如意輪観音に手を合わせております──」  やっと実盛は言った。 「おう、日頃六角堂に詣でておるのか。なれば、我らの姿が見ゆることもあろう」 「さもあらん」  鬼たちは納得したようにうなずきあった。 「ところで、こやつをどうしてくれようか」 「啖《くろ》うてしまえ」 「そうだ。喰《く》うてしまえ」  そういう話になった時、 「まてまて」  そう言ったのは、一本足の鬼であった。 「我ら、今は急ぎのところぞ」 「うむ。二条の藤原清次《ふじわらのきよつぐ》の屋敷まで行かねばならぬのだったな」 「ただでさえ、今は忙しく、手の足りぬところではないか。人を喰うている間なぞない」 「そうだったな」 「では、この男に我らを手伝わせるか」 「おう、それはよい案ぞ」 「では、そうするか」  言うなり、ひとつ目の鬼が、  かあっ、  と口を開いて、実盛に向かって、べっ、と唾《つば》を吐きかけてきた。  その唾が、実盛の額にかかった。 「さあ、ではこれをもて」  鬼たちのひとりが、実盛に何やら手渡した。  見れば、古びたひとつの小槌である。 「それを持ってついてくるがよい」  鬼たちが、ぞろぞろとまた歩き出した。  実盛は、ともかく鬼たちについてゆく他はない。  気がつけば、いつの間にやら鬼たちは、ふたりずつ散りぢりにどこかへ行って、実盛は、ひとつ目の鬼と一緒に藤原清次の屋敷の前に立っていた。 「さあ、ゆくぞ」  ひとつ目の鬼が、ずんずんと清次の屋敷の中に入ってゆく。  すでに屋敷の中は寝静まっている。  しかし、どんどんと足音高く歩いてゆくというのに、誰も起きてはこない。  やがて──  夜具の中で眠っている清次の枕元までやってくると、鬼がそこで立ち止まった。実盛もまたその横に立った。 「さっき、おまえに渡した小槌があったな」  鬼が、ひとつ目でぎろりと実盛を見た。 「は、はい、ござります」  実盛がうなずくと、 「その小槌で、清次を打て」  鬼が言った。 「は?」  言われたことの意味が、実盛にはわからない。 「よいから、打て──」  そう言われて、実盛は、おそるおそる眠っている清次の身体を、夜具の上から叩いた。  と──  小さな声で、清次が呻いた。  清次が起きるのではないかとひやひやしたが、しかし、眼を覚ましはしなかった。 「やめるな。どんどん打て」  鬼が言うので、かまわずに清次を打つと、ほどなく清次は、 「熱や……」 「熱や……」  声をあげて呻きはじめた。 「痛や……」 「痛や……」  そのうちに、 「おきゃあ」  いきなり高い声をあげて、眼をむいた。  清次が眼を覚ましたのかとびっくりしたが、清次は眼を覚ましはしなかった。  手が止まっていた。 「休まずに打て──」  そう言われて、また、実盛は清次を打った。  すると── 「熱や……」 「痛や……」 「寒や……」  そして── 「おきゃあ」  清次が声をあげる。  一刻ほども叩いていると、 「それくらいでよかろう」  ひとつ目の鬼が言った。  実盛が手を止めると、 「では次だ」  清次の屋敷を出て、別の屋敷に入り、そこでまた似たようなことをやらされた。  そこで、ようやく実盛は気がついた。  これは、あの猿叫の病ではないか。  なんと自分が手にした小槌で叩くと、人が、猿叫の病にかかるのである。  その晩は、三つほど屋敷をまわり、その家の人間を猿叫の病にした。  朝方、東の空が白みはじめる頃、 「よし、ではまた晩にむかえにゆくから、それまで好きにしておれ」  四条と朱雀大路の辻にひとり残され、鬼が姿を消した。  懐には小槌が残っている。  たいへんな体験をしたと、さっそく自分の屋敷にもどれば、家の者たちはもう起きていた。  実盛が帰ってこないので心配していたのである。 「おい、おれだ、今帰ったぞ」  声をかけた。  しかし、誰も実盛に気づく様子はない。  目の前に行って、 「どうした、わたしだ。わたしが見えないのか」  大声で叫んでも気がつかない。  どうやら、家の者には、自分の姿が見えないばかりか、声も聴こえてはいないらしい。  手で触れようとしても、相手の身体を手がすり抜けてしまう。  途方に暮れていると、夕刻になり、夜になって、鬼たちが実盛のところへやってきた。 「さあ、また今晩もしっかり働いてもらうからな──」  鬼と共に、またひと晩、同じようなことをやらされ、朝には自由にされた。  そういうことがしばらく続いた。  何日も食べていないというのに、腹は減らぬし、眠くもならない。  ただし、人と話ができない。  楽しみはと言えば、小槌で眠っている人間を叩いて猿叫の病にする時くらいである。  はじめはおそるおそるやっていたのだが、いつの間にか、小槌で人を叩くのがおもしろくなってきた。  時には、いつもいばっていておもしろく思っていない人間を叩くこともあって、そいつが、 「おきゃあ」  眼をむいて叫ぶ姿を見るのは、なかなか滑稽であった。  しかし、話し相手がいないのが淋しかった。  五日ほど前、四条と朱雀大路の辻で、ぼんやりと突っ立っていると、前から妙な風体の老人が歩いてきた。  蓬髪。  ぼろぼろの水干を着て、素足で歩いている。  その老人が、歩きながら近づいてくる。  その眼が、実盛を見つめている。  実盛は、思わず後方を振り向いた。  自分のうしろに誰かがいて、その姿を老人が見ているのかと思ったからである。しかし、実盛の後ろには誰もいない。  やがて、老人は、実盛の前に立ち止まり、 「おぬし、おもしろそうなものを持っておるな」  実盛の持っている小槌を見ながら言った。 「あんた、お、おれが見えるのか」 「見えるとも」  老人はこともなげに言った。  実盛の額を見、 「ほう、疱瘡神《ほうそうしん》に唾を吐きかけられたか」  そう言った。  実盛は、額に手をあててこすったが、これまでと同じで、唾はとれなかった。 「それは、ただこすったとて、とれるものではない」  老人は、実盛を見つめ、 「おい、助けてやろうか」  黄色い歯を見せて、にやりと嗤《わら》った。 「助けていただけるのですか」 「おう。その姿、見えるようにしてやろうではないか。これまでと同じように、飯《いい》も喰えるようにしてやろう」 「それは助かります」 「かわりにな、少し頼まれてくれぬか」 「なんなりと──」  言ってから、ふいに思い出したように、 「しかし、いずれ、夜になれば、どこにいてもあの鬼たちがやってまいります。どうしたらよろしいのですか」  実盛は言った。 「かまわぬ。ここで待たせてもらうさ」  老人は、楽しそうに、けくけくと喉をひきつらせるように笑った。  やがて、夜になった。  辻に立っている実盛と老人の耳に、どこからか、 「おうい……」 「おうい……」  という声が響いてきた。  その声がだんだん近づいてくると、四方の暗がりから辻に向かって、いつ姿を現わしたのか、鬼たちがぞろぞろと集まってきた。 「さあ、また今夜もしっかり働いてもらうからな」  ひとつ目の鬼が言った時、 「おい、ここに妙な爺いがひとりおるぞ」  一本足の鬼が言った。 「何者だ、この爺い」 「我らの姿が見えているのではないか」  鬼たちが言っているところへ、 「おい」  老人が言った。 「この男、わしがもろうてゆくぞ」 「なに」  鬼たちが色めきたった。 「異存はあるまいな。もともと、この男はおまえたちの仲間ではなかったのだろう」  平然として言った。 「何を言うか」 「我らの姿を見ることができるということであれば、多少の験力《げんりき》はありそうだが、生半可な力で大きな口をたたくと、怖い目を見るぞ──」 「まずそうな爺いだが、啖うてしまえ」 「おう、目だまをすすって、心の臓も肝の臓も、みな掴み出して、目の前で啖うてやればよい」 「おもしろい」  老人は、ひょいと素足で前へ出て、 「試してみるか」  すました顔でそう言った。  そこへ── 「おい、こやつは、あの破《や》れ寺の爺いぞ」  六本の手で這う鬼から声がかかった。 「何だと?」 「本当だ、あの爺いだ」 「こやつめ、その昔、閻魔府《えんまふ》までやってきて、馬頭《めず》大王さまに化けて、我らをたぶらかしたやつぞ」 「関われば、面倒な相手じゃ」 「やめい」 「やめい」  鬼たちが静かになった。  鬼たちは、じろじろと実盛と老人を見つめ、 「おまえは、このひと月よく働いた故、このまま見のがしてやろう」 「我らの仲間にしてやろうとも思うていたのだが、この爺いがうるさいことを言うのでそうもしてはおられぬ」 「好きにせよ」  そう言って、鬼たちは背を向け、 「おれは、一条へゆく」 「では、おれは堀川のあたりへ」 「くれぐれも、土御門《つちみかど》のあたりには近づくなよ」  口々につぶやきながら、夜の闇に姿を消していった。  あとに、老人と、実盛が残った。 「どうだ、うまくいったろう」  老人は言った。 「はい」  あのおそろしい鬼たちが、どうしてこの見すぼらしいなりをした老人に手も足も出せなかったのかはわからないが、どうやら自分は自由になったらしい。 「さて、では、今度はわしのためにひと仕事してもらおうか。その後で、おまえを、もとの姿にしてやろうではないか──」 「何をすればよろしいのですか」 「いや、これまでと同じことをすればよいのさ」 「同じこと?」 「ああ。どこぞの屋敷に入って、そこの主《あるじ》を、その小槌を使って、三日四日、猿叫の病にしてやればよい」 「どこのお屋敷に入ればよろしいのですか」 「どこでもよい。ただし、金のありそうな屋敷がよかろうな」  老人はにんまりと笑い、 「そこで、このわしがゆくまで、おまえは小槌を使って、せいぜいそこの主に声をあげさせておいてくれ」  そう言った。 「わかりました」  実盛はうなずき、 「しかし、その前に、ちょっと様子を見ておきたい女がおりますので──」  実盛は、ちょうどひと月前、自分が通うつもりであった女のことを思い出した。  これまでは、女のところへ行こうという気力もなかったが、もとの身体になるかと思った時、急に女に会いたくなったのである。 「それは、むろんかまわぬ」 「ところで、まだ、お名前をうかがっておりませんでしたが、いったいあなたさまはどういうお方なのでいらっしゃいますか」 「わしか。わしは見た通りの汚ない爺いさ──」 「お名前は?」 「播磨の蘆屋道満──」  老人は言った。      六 「なるほど、そういうことであったのですか──」  晴明は、話を終えた実盛に向かって言った。  すでに、場所は藤原中将の寝所ではない。  別室にさがって、晴明と博雅は、何人かの人間と一緒に実盛の話を聴いている。 「しかし、おおむね話はわかったのですが、まだ、わからないことがあります」  晴明は言った。 「何でしょう」 「何故、藤原中将さまだったのですか。中将さまは、あなたを前々からたいへん可愛がっておいでではなかったのですか」 「その通りでございます」  実盛の眼から、涙がはらはらとこぼれた。 「中将さまには、たいへん可愛がっていただきながら、こんなことをして、たいへん心苦しく思っております。しかし、これには理由《わけ》がございます」 「うかがいましょう」 「五日前の晩、道満さまに救っていただいたその足で、わたしは女のもとへ出かけていったのですが、なんと……」  そこまで言って、実盛は口ごもった。 「なんと?」 「はい。なんと、女のもとには、もう別の男が通っていて、女はその男と一緒に、閨《ねや》にいたのです」 「───」 「その男が、中将さまだったのです」  実盛は言った。      七  晴明と博雅は、簀子の上でほろほろと酒を飲んでいる。  まだ、雪は止まなかった。  すでに、雪は膝より上まで積もっている。  静かな、風のない夜であった。  天から舞い降りてきた雪が、積もった雪に触れる音までが聴こえてきそうであった。  藤原中将の屋敷からもどり、そのままここで酒を飲んでいるのである。 「なるほどなあ」  しみじみと、博雅は言った。 「それで実盛殿は、中将さまに小槌を使ったのだな」 「まあ、そういうことだ」 「しかし、また、何だって、道満殿は、実盛殿にあのようなことを頼んだのだろうかな」 「金のためさ」 「金?」 「ひと稼ぎして、温かいものでもめしあがりたかったのであろうよ」  晴明が言った時、 「まあ、そういうことだ」  今しがた晴明が口にしたのと同じ言葉が、庭から聴こえてきた。  見れば、雪の中に、いったいいつ入ってきたのか、ぽつんとひとつの人影が立っている。 「猿叫の病が重くなった頃を見はからって、このわしが出てゆき、病を癒して金子《きんす》でももらおうと思うていたのさ」  蘆屋道満であった。 「それで、のこのこと中将の屋敷に出かけていったら、もう、晴明に頼みに出かけたと言うではないか」  道満は、頭を掻きながら苦笑いをした。 「しかたがない。だが、半分はこのおれが仕組んだことだからな。晴明、おまえがこれを仕事にしたら、そのあがりを半分このおれがもらおうと思っていたのさ。なかなか、冬になると寒うてな。たまには、うまいものでも腹に入れたくなったというわけさ」 「それは申しわけございません、道満さま」 「なに?」 「実は、中将さまからは、何もいただいてはおりません」 「なんと、本当か、晴明──」 「本当です」  晴明が言うと、道満の顔が、一瞬、べそをかいたようになった。 「しかし、かわりに、実盛殿から、いただいたものがございます」 「何だ」 「酒《ささ》でござります」 「酒?」 「今、博雅と飲んでいるのが、その酒でござります。よろしければ、われらと共に、この酒でもいかがでしょう」  道満は、小さく溜め息をつき、 「しかたがない……」  ぼそりとつぶやいた。 「では、呼ばれるとしようか」  さくり、さくりと素足で雪を踏んでくると、道満は身体から雪をはらい、簀子の上にあがってきた。  見れば、杯も、炭のよくおこった火桶も、三つ用意されている。 「ほう……」  嬉しそうに道満は微笑した。  どかりと簀子の上に胡坐《あぐら》をかき、道満は杯を手にとって、晴明に向かって差し出した。 「注《つ》げ、晴明」 「はい」  晴明が、熱くなった酒の入った瓶子《へいし》を持って、道満の杯に温かな酒を満たした。  酒の入った杯から、湯気があがる。  その湯気に、鼻を埋めるようにして、道満が酒を飲む。 「美味じゃ」  道満が嬉しそうに言った。 「博雅は、なかなかに酒が早うござりますれば──」 「負けぬように飲む」  道満が笑った。 「おい晴明、それではまるで、おれが酒にいじきたないように聴こえるではないか」 「聴こえたか」 「聴こえた」  博雅は、唇を尖らせ、 「おれは、ただ酒が好きなだけぞ」  そう言った。  道満は、ひょいと手を伸ばし、 「博雅殿、酒がなくなれば、これで、どこぞの誰かでも叩きにゆかれればよい」  晴明の懐から、小槌を抜きとった。 「晴明、おまえ……」  博雅が、あきれた顔で晴明を見た。 「誰も気にしておらなかったのでな。おれがもろうておいたのさ」  晴明が、澄ました顔で言った。  道満の楽しそうな笑い声が響いた。 [#改ページ]   棗《なつめ》坊主      一  闇の中で匂っているのは、桜であるらしい。  あるかなしかの、ほのかな匂いである。  あると思えば、ある。  ないと思えば、ない。  それでも、夜の大気を静かに呼吸していると、何やら透明なる花の香らしきものが感じられるのである。 「なんとも、不思議なものだなあ」  そう言ったのは、源博雅《みなもとのひろまさ》である。  安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷。  簀子《すのこ》の上に座して、晴明と博雅は酒を飲んでいる。 「何が不思議なのだ、博雅」  視線だけを動かして、晴明が博雅を見やる。 「動いてゆく」  博雅は言った。 「何が動いてゆくのだ」 「大きなものがだ」 「大きなもの?」 「大きいが、しかしそれは……」 「それは?」 「眼に見えぬものだ」 「ほう」  おもしろそうに、晴明が唇の端に笑みを含む。  月が、闇に射している。  闇の中で、桜の花びらがしずしずと散っている。  風はない。  風がないのに、花びらは枝から離れてゆく。  博雅は、酒を飲みながら、月光の中をしらしらと散ってゆく桜の花びらを眺めている。 「眼には見えぬのだが、しかし、眼に見えるものによって、それが動いてゆくのがわかるのだよ」 「それは何だ」 「たとえば、それは、季節──春とでも呼べばよいかなあ」 「ほほう」 「よいか、晴明よ。たとえば、あの桜の花びらだ」 「花びらがどうした」 「散ってゆく」 「うむ」 「花は散って、葉が出て、その葉が秋には色づいて、そして散ってゆく。しかし、やがてまた春になれば、花が咲くであろう」 「うむ」 「桜の花だけではないぞ。梅であろうが、|※[#「くさかんむり/繁」、unicode8629]※[#「くさかんむり/婁」、unicode851e]《はこべら》や萱草《かんぞう》のような野の草であろうが、いずれは同じようなものだ。樹も、草も、花も、虫も、鳥も、このように季節の中を移ろうてゆくものだ」 「うむ」 「その、移ろうてゆくひとつずつのものは、見ることができる」 「できるな」 「咲く桜も、散る花びらも見ることができる。花に舞う蝶も、鳥も見ることができる。しかしだ、晴明よ」  博雅は、杯を簀子の上に置いて、声に力を込めた。 「ここが肝心《かんじん》なことなのだが、我らが見ているのは、実は、季節そのものではないのだ」 「うむ」 「我らが見ているのは、咲く桜であり、散る花びらであり、舞う蝶であり、鳥だ」 「確かに」 「よいか、晴明よ。この天地の間を、何か眼に見えぬ巨大《おお》きなるものが動いてゆく」 「うむ」 「桜が咲き、散るというのは、その巨大きなるものが動いてゆくからだ。それを、春と呼べばよいのか、季節と呼べばよいのか、はたまた時季《とき》と呼べばよいのかおれにはわからぬのだが、その巨大きなるものが動いているとわかるのは、ああやって桜の花びらが散ってゆくのを見ることができるからではないか。花だとか、虫だとか、眼に見える小さなものの動きによって、この天地の間に在る巨大きなるものの眼に見えぬ動きを知ることができるのだ」 「───」 「それが、おれにはしみじみと不思議に思えてならないのだよ、晴明──」 「なるほど」 「桜の花を眺めながら、おれはそんなことを考えていたのだよ」  博雅はそう言って、また、杯に手を伸ばした。 「いや、博雅よ。今おまえの言ったことを、朝晩に経を唱《よ》むことしか知らぬ坊主どもに聴かせてやりたかったぞ」 「坊主に?」 「おまえの言っていることは、呪《しゆ》や、仏法の説くところとまさしく同じものだ」 「そこまでだ、晴明」 「何がそこまでなのだ」 「おまえが、呪の話をしようとしているからだ。おまえが呪の話をすると、とたんにおれは何が何やらわからなくなってしまうからだ──」 「ふうん」 「おまえがおれを誉《ほ》めてくれているらしいのは嬉しいが、しかし──」 「しかし?」 「おまえが呪の話をすると、逆にからかわれているような気持ちになることがあるのだよ」 「あるか」 「ある」  博雅は、自信をもってうなずいた。  その博雅を見やり、 「やはり、人によるのだなあ」  晴明はしみじみとした声で言った。 「人による?」 「ああ。僧だから、陰陽師だからものの道理がわかるというのではないということさ。道理がわかる、わからぬというのは、人によるのさ。博雅よ、おまえは、僧でも陰陽師でもないが、その道理を自然《じねん》のうちにわかっているのだよ」 「ふうん」 「坊主の話が出たついでだが──」 「なんだ」 「明日、叡山《えいざん》に行くことになっている」 「ほう」 「常行堂に近い杉の林の中に、祥寿院《しようじゆいん》というのがあるのを知っているか」 「はて、どうであったかな」 「その昔、最澄《さいちよう》和尚が読経《どきよう》三昧《ざんまい》に日を過ごすためにお建てになったものでな、今は、三、四人の僧がいる」 「それで?」 「そこに、奇妙な僧がやってきたというのだよ」 「奇妙な僧だと?」 「ああ」  晴明は語り始めた。      二  こういうことであった。  四日前──  仁覚《じんかく》と英徳《えいとく》は、祥寿院で読経していた。  祥寿院には、他に二名の僧がいるが、彼らは所用で出かけており、いたのは仁覚と英徳の二名だけである。  読経していたのは『般若心経』であった。  そこへ、いきなり、ひとりの僧があがり込んできたというのである。 「もうし」  ふたりの背後から声がかかった。 「もうし」 「もうし」  読経をやめて、ふり返ってみれば、そこにひとりの僧が立っていた。  ぼろぼろの衣《きぬ》を身に纏《まと》っていた。僧衣は僧衣であるらしいのだが、それがただのぼろきれのようにしか見えない。何十年も洗濯もせずに同じものを着続けたらそのような有様になるかと思われた。  歳の頃なら、四十ばかりになるかと思われたが、言うことがどうも奇妙であった。 「義然《ぎねん》はおるか」  知らぬ僧の名を口にした。  仁覚と英徳は、互いに顔を見合わせ、 「存じませぬ」  そう言った。 「では、明実《みようじつ》はどこじゃ」  その僧が言う。  やはり知らない名であった。 「そういった名の僧は、存じあげませぬが、あなたはどなたさまでござりまするか」  仁覚が問うた。  すると── 「恵雲《けいうん》じゃ、わしを知らぬか」  そのように言う。  ふたりが知らぬと答えると、 「いったい何が起こったのじゃ」  恵雲と名のった僧は、ふたりにつめ寄った。  その恵雲の吐く息からは、ほのかに何かの果実の香が匂った。  しかし、それが何であるかわからない。  気のせいかもしれなかった。 「今の座主《ざす》はどなたじゃ」  恵雲が問うので、仁覚が答えると、 「知らぬ」  頭を抱え込んでしまった。  ともかく恵雲をそこに座らせ、色々と話を聞いてみると、次のようなことであった。      三  半月ほど前──  恵雲は、所用があって熊野に出かけた。  用事をすませて、帰り道に吉野を通った。  ちょうど桜の頃であり、吉野の桜を見て京まで帰ろうと考えたのである。  熊野から吉野まで、山中の道である。  樫《かし》の棒を杖がわりに手に持って歩いた。  大峰山の懐《ふところ》を抜けて、いよいよ吉野にさしかかろうという時、山中に酒の匂いを嗅《か》いだ。  はて──  足を停めてみれば、何やらぱちりぱちりと堅いものを打つ音がする。  音と匂いのする方へ足を進めてゆくと、そこに、一本の山桜の老樹があって、花が満開であった。  その桜の下で、樹の切り株を挟み、ふたりの老人が碁を打っているのであった。  切り株の上に碁盤を置き、床几《しようぎ》に腰を下ろして、ぱちりぱちりと、互いに黒い石と白い石を打ち合っている。  酒が入っているらしい瓶子《へいし》がひとつ。  杯がふたつ。  碁盤の横に置かれた干した棗《なつめ》の実を、時おり指でつまんでは口に運んでいる。ふたりが、口をもぐもぐやっているのは、その実を食べているためであるらしい。  ふたりは、たまに横を向いては、ぷっと棗の核《さね》を吐き出している。  白髪《はくはつ》、白髯《はくぜん》の老人たちであった。  どちらも、唐風《からふう》の道服のごときものを身につけている。  もともと、碁は嫌いな方ではない。  恵雲はふたりに近づき、横に立って勝負を見つめていた。  黒石、白石、どちらの地も同じくらいであり、実力は拮抗《きつこう》している。 「言うなよ、言うなよ」  見ていると、あそこはこう打ったらよいのに、ここはこう打ったらよいのに──と、色々と手が頭に浮かぶ。  思わずそれを口にしそうになる。 「言うなよ、言うなよ」  白石の老人が、恵雲の心を見透かしたように言った。 「他人の碁を見物なぞしておってよいのか。人の一生は短いぞ」  黒石の老人が言った。  しかし、恵雲は、それにかまわず碁の勝負を眺めている。  一方の杯が空になれば、酒を瓶子から注いでやり、また一方の杯が空になれば、そこへ酒を注いでやった。 「うむ」 「うむ」  と答えながら、老人たちは注がれた酒を飲んでいる。  そこへ、はらはらと桜の花びらが散ってゆく。  恵雲の見るところ、勝負は一目差で白石の老人に分がありそうであった。  このままだと、一目差で白石の老人が勝つかと思われる。  次の手で、あそこへ白石を打てば──  しかし、白石の老人は、ぱちりと別の場所に白石を置いてしまった。 「あっ」  と思わず恵雲は声をあげてしまった。 「むふう」  嬉しそうに、黒石の老人が、恵雲があそこへ白石を置けばよいと思っている場所に黒石を置いてしまった。 「ややっ」  白石の老人は、置かれたばかりの黒石を見つめ、 「むむう」 「むむう」  唸り出した。  白石の老人の額から、たらりたらりと汗がこぼれてくる。 「むふう」  黒石の老人は、唇を閉じたまま含み笑いを続けている。 「こら」  白石の老人が、恵雲を見た。 「おまえがつまらんことを言うから、勝ちを逃がしてしまったではないか」  これは言いがかりであった。  確かに恵雲は声をあげたが、それは白石の老人が石を置いてからのことである。 「お言葉でございますが──」  恵雲は、そのように言いわけをした。 「いや、うるさい。おまえが、あっ、と声をあげたから、北斗のやつに今のわしの手が間違いであったと気づかせてしまったのだ。黙っておれば、まだ、なんとかなったのだ」 「これ、南斗の。こやつが声をあげようとあげまいと、わしは始めから気づいておったのだ。自分の実力を他人のせいにするなぞ、見苦しきことこの上なし」  黒石の老人が言った。 「むむむ」  白石の老人は、口をつぐんで唸った。 「ともかく、こやつがうるさいというのにはかわりはない」  白石の老人は、恵雲を睨み、 「その口をふさいでくれようぞ」  棗の実をひとつつまみあげると、手を伸ばしてそれを恵雲の口の中に押し込んだ。  棗の実の果実臭が、恵雲の口の中に広がった。 「よいか、核《さね》を出すではないぞ。ずっとそのまま口に含んでおれ」  果肉を喰べ、残った核を吐き出さずに口に含んで見ていると、 「ううむ」 「ううむ」  白石の老人が、顔を赤くして唸っている。 「あきらめよ、あきらめよ。この勝負、わしの勝ちじゃ」  黒石の老人が言う。 「ええい、おまえのおかげで負けてしもうたわい」  白石の老人が、恵雲をうらめしそうな眼で見た。 「次の勝負で、勝てばよいではないか」 「よし、では千年後じゃ。千年後の次の勝負では、このわしが勝って、おまえのくやしがる顔を拝ませてもらおうぞ」 「くやしがるのはおまえぞ。今から千年後が楽しみじゃ」 「ふん」 「ふん」  そう言ったふたりの足元から、にわかに白雲が巻き起こった。  その雲に乗って、ふわりふわりと、ふたりの老人の身体が宙に浮きあがった。 「千年後ぞ」 「千年後じゃ」  ふたりは言いあって、空高く浮きあがったかと思うと、白石の老人は南の空へ、黒石の老人は北の空へと、雲に乗って飛び去っていった。  後に残されたのは、恵雲ばかりである。  恵雲は、唖然として、ふたりの姿の消えた空を見あげていた。  どうやら自分は、この世のものならぬ者たちの碁を打つのを見ていたらしい。  いやはや、なんとも奇態なる体験をしたものだと、足元に置いてあった樫の杖を手に取ってみれば、いつの間にそうなったのか、腐ったようにぼろりと崩れてしまった。  杖無しで吉野を抜け、京へ入り、叡山の祥寿院へもどったら、見知らぬ僧ふたりが読経している最中であった。  そこで、恵雲はふたりの僧に声をかけた──ということであるらしい。      四  仁覚と英徳があれこれと調べてみたら、確かに、五十年ほど前、恵雲という僧がこの祥寿院にいたというのである。  恵雲が口にした座主の名も、五十年前に座主をしていた僧の名であり、義然も明実も、確かに五十年前、叡山にいたが、いずれも今はこの世の人ではない。  恵雲について言うなら、五十年ほど前に所用あって熊野に出かけたきり、そのまま叡山にはもどってこなかったという。 「ならば、その恵雲がわしじゃ」  恵雲と名のった僧は、そう言った。  しかし、何故、五十年もたってから恵雲がもどってきたのか。  恵雲自身の感覚では、ただ熊野に行ってもどってきただけであり、ひと月も叡山を空けていたわけではない。恵雲の歳にしても、出て行った当時のものであり、本当に恵雲であれば、百歳に近い年齢になっているはずであった。  だが、どう見ても、恵雲は五十歳前の顔つきである。  偽者が恵雲の名を騙《かた》っているのか、はたまた本物であるのか。  もしこの恵雲が本人であるなら──  俗に言われていることに、天界と地上とは時間のたちかたが違うということがある。天界の一日は地上の一年であるとか、三年であるとか言われている。 「なにしろ、雲に乗って、去って行った方々じゃ。仙人か天界の方々であったのだろう。あの方々が碁を打っておられるところへ立ち会ってしまったわけだから、自分ではほんの一刻半ほどと思っていたのだが、その間に地上では五十年の月日が過ぎてしまったのであろうよ」  恵雲が言った。 「それにしても、奇特なことに出会ったものだなあ」  本人も、皆々もそれで納得をして、恵雲はそのまま祥寿院に残ることとなった。      五 「なるほど──」  博雅はうなずき、 「奇妙なことではあるが、そういうこともあるであろうな」  そう言って晴明を見やった。 「北斗星と南斗星が、碁をお打ちになっておられたところへ立ち会われたのだ。そのくらいのこともあろうよ」  あっさりと晴明は言った。 「北斗星と南斗星と言うたか、晴明──」 「恵雲殿の話からすると、黒石を持っておられたのが、北斗星。白石を持っておられたのが南斗星ということであろう」 「しかし、奇特のことであるというのはよいにしても、本当に北斗星、南斗星が、吉野に近い山中で碁をお打ちになっておられたというのか」 「熊野、大峰、吉野というのは、いずれも霊山ぞ。様々のことが起こっても不思議はあるまい」 「しかし──」 「恵雲殿が、そう思うたということであれば、それはまさしくそういうことなのだ。人はな、同じ出来事に同じ場所で出会っても、同じ体験をするわけではない。その人間が、それぞれかかっている呪によって、それぞれが少しずつ異なった体験をするのだ」 「また、呪の話か」 「あるいは他の人間が、同じ現場に出会うたら、そのふたりの老人は、ただの近在の老人ふたりの碁打ちであったかもしれぬということさ」 「よくわからぬ」 「まあよいさ。おれにも、真実《ほんとう》のところはわかっているわけではないからな」 「しかし、晴明よ。どうして、おまえがわざわざ叡山まで行くのだ。話はそれで終ったのではないのか」 「博雅よ。どうやらそれがまだ、終ってはいないらしいのさ」 「どういうことなのだ」 「恵雲殿は、どうも腹がへらぬ性《たち》らしい」 「腹がへらない?」 「お食事をされないのさ」  仁覚や英徳が勧めても、恵雲は、姿を現わした時から、ずっと何も食べないのだという。 「貧道《ひんどう》は、ありがたい方々に会ったせいか、腹がへりませぬ」  眠くもならぬらしく、夜は夜で、ずっと起きたまま、経を唱えている。  いつも、にこにことしている。  することと言えば、読経だけである。  暇さえあれば、日がな一日経を唱《よ》んでいる。 「勧めれば、時おり、白湯《さゆ》はめしあがるらしいがな。口にされるものと言えば、それだけさ」 「ふうむ」 「でな、博雅よ」  晴明が声をひそめた。 「何だ、晴明」 「白湯を飲まれた恵雲殿が立ちあがるとな、それまで座っておられたあたりの床が濡れていたというのさ」 「まさか、恵雲殿がそそうをなされたとか──」 「だから、それを確かめに行こうというのさ──」 「頼まれたのか?」 「ああ。昼に、仁覚殿がここへ来られてな。どうも気味が悪いので、様子を見に来てはくれまいかというのさ」 「叡山であれば、その手のことであれば、人はいように──」 「それが、上の者に知られたくないと言うのさ」 「どういうことだ?」 「坊主も出世がしたいということさ」  晴明は、赤い唇に微笑を点《とも》した。 「上の者にはまだ話をしていない。今、うまくおさめれば、祥寿院だけのことでおさめられる。放っておいて、何かあったら出世に響くからな」 「そういうものか」 「そういうものさ」 「それで、明日、叡山へ──」 「どうだ博雅、つきあわぬか」 「おれもか」 「ああ、おもしろいものを見ることになるやもしれぬ」 「おもしろいものだと?」 「ゆくか」 「う、うむ」 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      六  恵雲は、晴明と博雅の前で、ちんまりと床の上に座していた。  にこにこと微笑しながら、恵雲は晴明と博雅を眺めている。 「安倍晴明と申します」  晴明は、言った。  博雅も自らの名を名のった。  ふん。  ふん。  と恵雲は微笑しながらうなずいている。  特別に、何かの話をしているわけではない。  しているのは、言うなれば世間話である。  晴明は、天気や季節のことや、今の朝廷のことなどについて、恵雲と話をしている。  陰陽道の話も自然にすることになる。 「では、晴明さまは、賀茂忠行さまの……」 「忠行さまは、我が師でござります」  晴明が答えた。  何ということはない話が続いてゆく。  しゃべる恵雲の息からは、ほのかに何かの果実の匂いが届いてくる。  たわいのない話が、続く。  しゃべっているのは、ほとんどが、恵雲であった。晴明は、ただ恵雲の言葉に相槌《あいづち》を打ったり、問われたことに答えたりするだけである。  やがて── 「白湯を──」  話の途中で晴明が言うと、仁覚が立って、白湯の入った椀を運んできた。  晴明が白湯を飲み、博雅が白湯を飲む。  恵雲もまた、白湯を飲んだ。  恵雲が、空になった椀を床に置くのを待って、 「すみませぬが、ちょっとそのままお退がりいただけませぬか」  晴明が言った。 「退がる?」 「ほんの少しでよろしいのです。退がってまた、もとのようにお座り下さりませ」  晴明に言われたように、恵雲が膝ふたつ分ほど退がって、そこに座した。  さっきまで、恵雲が座していた場所──恵雲の膝先の床に、小さな水の溜りができていた。 「それを、ごらん下さりませ」  晴明が言った。 「これが、何か?」  にこにことしながら、恵雲が言った。 「恵雲さまが、ただいまめしあがられた白湯でござります」 「白湯?」  恵雲が、怪訝《けげん》そうな顔をした。 「まだ、おわかりになりませぬか」 「まだ? 何のことでしょう」  晴明は答えない。  ただ、恵雲の顔を見つめている。  長い沈黙であった。  ふいに──  あっ。  と小さく恵雲の唇が動いた。 「ああ、なるほど──」  恵雲はうなずいた。 「ああ、そうでありましたか。そういうことでありましたか」  なにやら、合点《がてん》のいったような顔であった。  晴明は、うなずいている恵雲を見つめ、 「お話、楽しゅうござりましたな」  そう言った。 「はい。楽しゅうござりました」  納得したように言って、恵雲は、哀しそうな眼で、晴明を見た。 「ありがとうござりました、晴明さま。晴明さまがいらしてくれなかったら、わたしはずっと気がつかぬままでいたことでしょう」 「よいお話でした」 「もう少し、読経三昧の日々を過ごしたかったと思いますが……」  淋しそうに言って、 「ま、しかし、一生とはこのようなものでありましょうなあ」  小さく微笑した。 「はい」  晴明はうなずき、 「御成仏なされませ」  頭を下げた。 「はい」  そう言った恵雲の顔が微笑した。  その微笑が、すうっと薄くなり、消えた。  恵雲はもうどこにもおらず、つい今しがたまで恵雲がいた場所には、それまで恵雲が身に纏っていた衣が落ちているばかりであった。 「恵雲殿は、もう、亡くなられていたのだな──」  博雅が言った。 「ああ」  晴明がうなずいた。      七  後日、仁覚と英徳は、叡山を出て、吉野へ向かった。  吉野を抜け、大峰山の山中に入り、晴明が言ったあたりの場所までゆくと、そこに大きな桜の老樹が花を咲かせていた。  その下に、樹齢五十年ほどと思える一本の棗の樹が生えていて、桜の花びらがその上に散りかかっていた。  用意してきた鍬《くわ》で、棗の樹の根元を掘ってみると、そこから一体の白骨が出てきた。  棗の樹は、その白骨の、ちょうど口のあたりから生えていた。 [#改ページ]   東国より上る人、鬼にあうこと      一 「なんと美しい……」  源博雅《みなもとのひろまさ》は、うっとりとした声で言った。  博雅は、玉《ぎよく》の盃を手に持って、天を見あげている。  月が出ていた。  透明な夜の空に月が出ていて、博雅の座している軒下にまでその光が差してきている。  ほろほろと天からこぼれ落ちてくる月光の中に座して、博雅は先ほどから酔ったように溜め息をついては、月を讃する言葉を、その唇で独語しているのである。  安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷の簀子《すのこ》の上だ。  酒を飲んでいる。  灯火がひとつ、点《とも》っている。  盃が空になれば、ふたりの傍に座した蜜虫が、無言で瓶子《へいし》を手に取って酒を注ぐ。  晴明もまた、博雅と同じ月光の中に座している。  晴明は柱の一本に背をあずけ、博雅が独語するにまかせている。  聴くともなく、聴かぬともなく、晴明の耳には博雅の声が届いているらしい。  白い狩衣にふうわりと身を包んで、晴明は楽《がく》の音《ね》のように博雅の声を聴いている。  晴明の紅い唇には、あるかなしかの笑みが点っている。  博雅の口から出てくる溜め息、讃嘆の声、言葉、その抑揚《よくよう》や呼吸の全てが、晴明にとっては心地よいらしい。  桜の青葉が、闇の中で揺れている。  草や樹の発酵するような匂いが、夜気の中に溶けていた。  梅雨がやってくるには、まだしばらくの間があった。  見あげているうちにも、空はますます冴えわたり、月はいよいよその輝きを増してゆく。  夜の虚空で|※[#「口+」、unicode5639]※[#「口+」、unicode5639]《りようりよう》と月が鳴り響いているようであった。 「この月の光の中を、おれの魂までもが天へ向かって昇ってゆくような心地がするよ」  博雅は言った。 「おれの知る全ての楽の音が、あの天で鳴っているようだ……」  天を見あげ、 「何と美しい……」  博雅はもう一度言った。  天から晴明に視線をもどし、 「なあ、晴明よ、そうは思わぬか」  博雅はしみじみとした溜め息をついた。 「何のことだ、博雅」  晴明が博雅を見やった。 「あの月がだ──」  言ってから博雅は頭《かぶり》を振り、 「いや、この天地がだ。今宵はいつにも増して、この天地がいよいよ美しく、胸に滲《し》み込んでくるようではないか」  そう言った。 「なるほど、そういうことか」 「何がそういうことか、だ。おまえは、今宵の月に心を動かされるということがないのか──」 「あるさ。人は、呪《しゆ》によって心を動かされもするし、心が動けばそこに呪が生ずるのだからな」 「なに!?」 「人は呪によってこの宇宙と関わっているのだ。美もまた、人がこの宇宙と関わるための呪といっていい」 「また呪の話か」 「まあ、聴けよ博雅」 「聴くのはいいが、話をややこしくするなよ晴明」 「ややこしくはせぬ」 「ならいい」 「博雅よ、美とは何だ」 「な、な……」 「いや、言い方を変えよう。美とはどこにある」 「な、なんだと?」 「たとえば月だ。おまえは今、月が美しいと言ったが、その美しさとはどこにあるのだ」 「つ、月にではないのか」 「さて、そこだがな、博雅──」  晴明はその紅い唇に、楽しそうな笑みを浮かべた。 「つ、月ではないのか?」 「急ぐなよ、博雅。月は月でよいのだが、しかしただ月は月であるだけのものだぞ」 「───」 「たとえばだ、博雅。この世からおまえもおれも、全ての人、全ての生命が死に絶えてしまったとしたらどうだ」 「どう?」 「月を見るものがいなくなってしまうということさ」 「───」 「つまり、月を見て美しいと思う気持ちも、心の動きもこの世から消え去ってしまうということだ」 「───」 「人がこの世から死に絶えてしまっても、月は月だ。今夜と同様に、あのように照り輝くこともあろう。月は残るが、しかし、人と共にその月の美も消え去ってしまうのだ──」 「晴明、やはりおまえは話をややこしくしている」 「してはおらん」 「している」 「まあ、そう言わずに聴けよ、博雅──」  晴明が、心もち身をのり出した。 「では逆に、あの月がなかったとしたらどうする?」 「どうするって──」 「月もない、花もない、星もない──この世にただ独りおまえだけがある。他のものは始めからない」 「───」 「するとまた、さきほどと同様に、美というものはこの世から消え去ってしまうのだよ」 「そ、それはつまり、美というものがこの世に在るためには、それを見る者と、見られる|もの《ヽヽ》が必要ということか」 「そういうことだ、博雅」 「む、むう」 「源博雅だけがいて、月が無いのでは美はない。月だけがあって、源博雅がいないのでは、やはりそこに美はない。源博雅がいて、月があって、はじめてそこに美というものが生ずるのだ」 「───」 「呪とは、人そのものと言っていい。生命そのものが、呪なのだ」 「う、うむ」 「生命と宇宙とは、呪によって結ばれているのだ」 「晴明よ、不思議だな」 「どうした」 「今夜は、いつものように、おまえが呪の話をしても、頭がこんがらがったりしてこない」 「ほう」  博雅は月を見あげ、 「何だか、これまで以上にしみじみとあの月や天地と、このおれが結ばれているような気がするよ」  そうつぶやいた。 「よかったではないか」 「うん」  小犬のように素直に、博雅はうなずいた。  その時── 「おや……」  晴明は、月とは別の方角に顔を向けた。  闇の向こうにさぐるような視線を放ち、呼吸を止めた。  その唇から、笑みが消えていた。 「どうしたのだ、晴明──」 「何か、来る……」 「何だって?」  博雅が聴き返した時、蜜虫が、庭の奥に視線をやった。  門の方に、人の気配があった。  晴明と博雅のいる簀子からは、屋敷の死角になって見えないが、何者かがあわただしく門から駆け込んできたらしい。  と── 「お助け下さいまし」  声がした。  せっぱつまったような男の声であった。  独りの旅姿の男が、横手の闇の中から庭にまろび出てきた。 「お助け下さいまし。お助け下さいまし」  夜露に濡れた草を分けながら、その男が簀子に走り寄ってきた。  頭のかぶりものまで落としたらしく、結《ゆ》った髪が乱れているのまでがまる見えになっている。  男は、簀子の下に膝を突き、 「お助け下さいまし」  晴明と博雅を見あげながら言った。 「どうしたのだ」  博雅が、腰を浮かせて訊ねた。 「追われております」  男は言った。 「追われている? 何からだ」 「わかりません」 「わからない?」 「おそろしいものです。それがわたしを追ってくるのです」  男は、言いながら、後方を振り返った。 「この男は、何を言っているのだ晴明──」  博雅は言った。 「この男が来ると、来ぬうちから言っていたおまえならわかるだろう」 「違うぞ、博雅──」  言いながら、晴明が簀子の上にゆっくりと立ちあがった。 「何が違うのだ」  つられて、博雅も立ちあがっていた。 「おれが、来る、と言ったのはこの方のことではない」  晴明が言った時、庭から築地塀《ついじべい》のむこうまで伸びた楓《かえで》や桜の梢《こずえ》が、一陣の風に煽られたように、ざあっ、と鳴った。  黒い、眼に見えぬ手が、葉や枝を闇の中でひと撫でしていったようであった。 「|あれ《ヽヽ》のことだ」  晴明が言った。 「ひいい」  男は、腰を浮かせて、簀子の上に両手を乗せた。 「どこだ。どこへ隠れた」  闇の中から、肌が粟立《あわだ》つような不気味な声がした。 「ここか、この屋敷の中か──」  ざわざわと枝が鳴る。 「むう。入《はい》られぬぞ。入られぬ。何かが、おれの邪魔をしておるわいなあ」  何ものかが、築地塀のすぐむこうで、くやしそうに舌打ちをした。 「あ、あれでございます。あれがわたしを追ってくるのでございます」  男が、ひきつった声をあげた。 「せ、晴明──」  博雅が晴明を見た。 「心配はいらぬ。あれは、この屋敷の中には入ってこられぬ」  眼に見えぬ何かが、築地塀の上を右に左に動いているらしく、塀にかかった枝や葉がざわりざわりと揺れている。 「ちぇー、あなくやしや、ここからも入られぬ──」  ひとしきり騒いでいたそれは、やがて、動くのをやめた。 「とりて喰おうと思うたによ──」  頭《かしら》の毛が太《ふと》るようなことを言った。 「平重清《たいらのしげきよ》というたか。名は聞いたからな、今夜がだめならまた明日の晩、明日の晩がだめならまたその次の晩、おまえを喰うまで通い続けるからなあ……」  気配が消えた。  男は、下から、両手で晴明の右足首を掴んだまま震えていた。      二  男が話し出したのは、蜜虫が運んできた椀に、たっぷり水を三杯ほど飲み干してからであった。 「わたくしの名前は、平重清と申しまして、東国に住んでいる者でございます。このたびは所用があって都まで上《のぼ》ってきたのですがその途中で、あれに出会ってしまったのです──」      三  東国から都へ上ってきて、ちょうど勢田《せた》の橋にさしかかるあたりで日が暮れた。  従者が三人。  その日のうちに都に入る予定であったのだが、朝に重清が腹をこわして、出発が遅れてしまったのである。  近くに宿を捜したのだが、うまいぐあいのものが見つからなかった。  野宿をしようかと考えていると、従者のひとりが、少し道をそれたあたりに、ちょうどよい屋敷のあるのを見つけてきた。  庭も家も荒れ果てていて、誰も人は住んでいないらしいのが、かえってよかった。誰にも気がねすることなく休むことができるからである。  どんなわけで人が住まなくなったのかはわからないが、ともかく、屋根の下で雨露をしのぐことだけはできるのがありがたい。  馬を簀子の高欄《こうらん》へ繋《つな》いで、従者たちは軒下の簀子の上で寝た。  主の重清は、中に敷皮などを敷いてただ独りで寝ることとなった。  旅の途中で、思いがけなくこの屋敷に臥《ふ》すこととなったが、なかなか寝つかれなかった。  灯火も消さずに点したままである。  勝手のわからぬ家であり、夜半に起きるようなことになってもいいようにと、灯りを消さずにおいたのであった。  眠れぬままに、横になって眼を開いていると、目だまから部屋の闇が入り込んできて、身体の芯までその闇で満たされてしまいそうであった。  そのうちに、重清は、妙な気配に気がついた。  部屋のどこかで、ごそごそと何か奇妙な音が聴こえるのである。  かさり、  こそり、  と、爪のようなもので何かを掻くような音が聴こえる。  横になったまま、その音のする方へ頭《こうべ》をめぐらせると、部屋の奥の暗がりの中に、何かがあった。  闇に眼をこらしてみれば、それはどうやら鞍櫃《くらびつ》のようであった。  もともとは鞍を入れておくための櫃《ひつ》である。それが、どうして、このような場所に置いてあるのか。  しかも、音は、どうやらその鞍櫃の中から聴こえてくるらしい。  そもそも、あのような鞍櫃、もともとあそこにあったのかどうか。  怪しい。  さては鬼の棲む家に宿をとってしまったか。  こわくなった。  逃げ出そうかどうしようかと迷っていると、鞍櫃の蓋《ふた》が細く開いていて、その中から何かが凝《じ》っとこちらをうかがっているような気配がある。  しかも、ゆっくりとその蓋はさらに上に持ちあがってゆくではないか。  これは逃げ出さぬとたいへんなことになる──重清はそう思った。  かといって、いきなり起きあがって走り出したのでは、鞍櫃の中からそいつが飛び出してきて、たちまち自分は捕まってしまうであろう。 「馬共《むまども》の不審《いぶかし》き、見む」  馬のことがどうも気になる、ちょっと様子を見に行ってくるか──独り言のように言って、重清は身を起こした。 「どれ」  起きあがって、外へ出てゆくと、月明りに自分の馬が繋がれているのが見える。  そっと馬に鞍をのせて、這《は》うように股がった時、背後から声がかかった。 「おいどこへゆく。名を申せ」 「平重清じゃ」  思わず答えてから、まさか自分の従者が名を問うてくるわけもない、これは、あの鞍櫃の中の者が声をかけてきたのだとわかった。  鞍櫃の蓋がばさりと開いて、何かそこから出てくるのがわかった。 「者ども、逃げよ」  重清は叫んでいた。 「ここは鬼の家ぞ」  馬の尻にひと鞭あてると、たちまち馬が走り出した。  駆けに駆けて逃げた。  従者たちがどうなったのか、後ろを振り返って見る間もなかった。  後方から、馬と同じ速さで何かが追ってくるのがわかった。  その息遣いまでが聴こえてくる。  かち、  かち、  と歯を噛み鳴らしているらしい音までが届いてくる。 「己《おのれ》は何処《いどこ》まで罷《まか》らんとするを。我れここに有りとは不知《しらざ》りつるか」  おまえはどこまで逃げるつもりか、おれがここにいるのを知らなかったのか──おそろしい声が聴こえてくる。  全身の毛穴が開いた。  思わず、後ろを振り返っていた。  夜なので、その姿はよく見えなかった。  月明りに見れば、大きな、黒い、 �云《い》はむ方《かた》なく怖《おそろ》しげなり�  言いようもなくおそろしげな様子をしたものであった。 「あなや」  声をあげて、馬の尻に鞭を入れに入れた。  走りに走った。  向こうに、勢田の橋が見えてきた。  そこで、何かに蹴つまずいたのか、馬が前のめりに転がって、重清は前に放り出されていた。  したたかに地面に身体を打ったが、重清は起きあがった。  脚を折ったのか、馬は起きあがってこない。  すぐ目の前が勢田の橋であった。  重清は、橋の下に跳び下りて、一本の柱の陰に身を隠した。  すると、橋の上に何やら気配があって、 「ここまで逃げて、馬を降りたのはわかっているぞ。どこへ隠れた」  そういう声がする。  見つかったらたいへんとばかりに、息を殺して、口の中でただひとつ知っていた『観音経』を必死で唱えた。  観音菩薩よ、我を助けたまえ── 「橋の下に隠れたなあ」  上から声がふってきた。  鬼が下を覗き込んでいるらしい。  もうだめかと思った時、 「お待ち下され、今出てゆきます」  橋の下の別の場所から声がした。  はて、何者か。  自分とは別に、誰かこの橋の下に隠れていたのか。 「やはり下にいたか」  鬼が声をあげる。  何やら、向こうの土手から上に登ってゆくものの気配があって── 「おう、出てきたか、こやつめ」  どすんと大きな音が頭上で響いた。  橋の上に出てきたものに、鬼が飛びかかったようであった。  続いて──  ごり、  ごり、  がつん、  がつん、  と、鬼の歯が何かを齧《かじ》るような音が聴こえてきた。  重清のかわりに橋の下から出ていったものが、鬼に頭から喰われているらしい。  何ものかは知らないが、おかげで重清は生命《いのち》びろいをしたことになる。  申しわけないが、そのものが喰われている間に逃げ出さねばならない。  泳いで川をむこうへ渡り、岸へあがって、都の方へ向かってそっと歩き出した。  しばらく行ったところで、馬を見つけた。  さっき、転んで、動けなくなったかに見えた自分の馬であった。  これ幸いとばかりに、馬に乗って、またもや重清は逃げ出した。 「なんと、そちらにいたか、重清め」  馬の走り出す音で、鬼が気がついたのである。 「逃ぐるなよ」  たちまち、鬼が走って追ってきた。  鞭を当て、重清は必死で馬を走らせた。  だが、馬は脚を傷めており、先ほどより速度はあがらない。 「邪魔な馬よ」  後方から声が聴こえてくる。 「まず、その馬から啖《くろ》うてやろうか」  重清は、もう、生きた心地もしない。  それでも、必死で馬を駆けさせた。  そのうちに、さすがに馬の脚も遅くなってくる。  しかし、追ってくる鬼の方も、疲れているらしく、思ったほどは追いつかれていない。それでも、距離はだんだんと縮まってくる。  ふっ、  ふっ、  という追ってくるものの息遣いが、近づいてくる。  その息が、もう、首筋にかかるような気がした。 「呵呵」  という笑い声がすぐ後ろで聴こえた。 「つかまえたあ」  声が聴こえたかと思うと、がくんと馬の速度が落ちた。  馬が、鬼に尻を掴まれたのか、齧られたのか。  またもや、重清は、前のめりに馬から転がり落ちた。  起きあがり、走って逃げた。  たちまち追いつかれるかと思ったが、鬼は追ってこない。  後方から、馬の哀しげな悲鳴に似たいななきと、肉に獣の歯がかぶりつくような音が聴こえてきた。  かつ、  かつ、  と獣の口が、肉を喰《は》む音。  ぞぶり、  ぞぶり、  と血肉を啜《すす》る音。  がつん、  ごつん、  と歯が骨を噛み砕く音。  振り返らずに逃げた。  従者たちがどうなったかわからないが、今は自分の身を守るだけでせいいっぱいであった。  鬼が、馬を喰べている間に、夢中で逃げ、ようやく重清は都に入った。  入っても、しかしあちこちの屋敷の門は閉ざされており、灯火も見えない。  もう、走る気力もない。  這うようによろよろと前に歩いていると、 「どこだあ」 「どこだあ」  後方からあの声が聴こえてきた。 「臭うぞ、重清」 「こちらか」 「ほう、こちらへ去《い》んだか」  声がだんだん近づいてくる。  重清は走り出したが、もう、ほとんど歩くのと速度がかわらない。  もうだめかと思った時、むこうに、ほのかに灯火が点っているらしい灯りの色が見えた。  築地塀があり、その向こうに点っている灯火の色が、庭から生えている松や楓の枝に、ほのかに映っている。 �何だか、これまで以上にしみじみとあの月や天地と、このおれが結ばれているような気がするよ�  人の声まで、築地塀の向こうから聴こえてくるではないか。  必死で門の方へゆけば、なんと、門が開け放たれたままになっているではないか。  祈るような気持ちで、その門から中へ飛び込んだ。      四 「そうしたら、こちらがたまたま安倍晴明さまのお屋敷であったというわけだったのです──」  平重清は言った。 「なるほど、そういうことでしたか」  晴明はうなずいた。  語っている間に、ようやく重清の呼吸も整ってきていた。 「わたしは助かったのでしょうか」 「今夜のところは──」 「また、来ると言っておりましたが、本当にやって来るのでしょうか」 「おそらくは」 「しかし、どこかへ身を隠してしまえば──」 「身を隠しても、いずれは見つけられてしまうでしょう。あれは、そういうものです」 「まさか」 「問われて、お名前を名のってしまったのはいけませんでした。嘘の名でも言っておけばよかったのです」 「───」 「お名前を名のられたことで、あなたとあの妖物との間に、呪が結ばれてしまいました」 「ああ──」  重清は声をあげ、ふいに気づいたように、 「そうだ、わたしの従者たちはどうなったでしょう」  晴明に問うた。 「件《くだん》の屋敷を出ておれば、だいじょうぶでしょう」 「これから、わたしはどうすればよいのでしょうか」 「今夜のところは、わたしのところでお寝《やす》み下さい。これも何かの御縁でしょうから、なんとかできるものなら、明日、なんとかしてみましょう」  晴明は、博雅に向きなおり、 「どうだ、博雅、ゆくか」  そう訊ねた。 「ゆく? どこへだ」 「平重清殿がお泊まりになられた、件の屋敷へさ」 「行ってどうする」 「さて、何をするか。まあ、それはまた明日考えようではないか」 「う、うむ」 「どうだ、ゆくか」 「うむ」 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      五  翌朝──  晴明は、何やら手の平にのせて、 「ふむ」  独りうなずくともなくそれを眺めている。  博雅が見やれば、晴明の左の掌《たなごころ》の上に、黒い獣の毛のようなものが何本も載っている。 「どうしたのだ、それは」 「今朝、蜜虫が持ってきたのさ」 「蜜虫が?」 「昨夜、妖物が駆けた築地塀の上を見にやらせたら、上にかかっている楓の枝先にこの毛がひっかかっていたというのさ」 「何の毛だ」 「さあて──」  意味ありげに微笑しながら、 「蜜虫や。墨と筆を──」  晴明は、蜜虫に声をかけた。 「何をするのだ」 「まあ、後でゆるりと話をする。今のところは、まだおれも実はよくわかってはおらんのだ」 「わからない?」 「だからそれをこれから調べようというのさ──」  蜜虫が、硯と墨、そして筆と紙を用意した。 「ところで博雅よ、おれの記憶に間違いがなければ、勢田の橋ができたおり、確か広沢の寛朝さまが関わっておられたはずだな」 「おう、十六、七年も前であったかな」 「十六年前さ」  晴明は、紙にさらさらと何やら書いて、 「蜜虫や、これを広沢の寛朝僧正さまのところへ届けてくれぬか」  その文を蜜虫に渡した。 「昼過ぎには、勢田の橋にいるからと、御返事はそこでいただきたいと申しあげてくれ」  蜜虫は、静かにうなずいて、音もなく外へ出て行った。  続いて晴明はまた筆をとり、新しい紙に、何やらたくさんの獣の名を書き始めた。  犬。  猫。  牛。  馬。  鼠。  猪。  烏。 「何をしているのだ」  博雅が問う。 「後で話をすると言ったろう。博雅よ、おまえも出かける仕度をしておくといい。馬でゆく──」 「馬で?」 「ああ。呑天《どんてん》が、もう、庭に馬の用意をしているはずだ」  晴明は言った。      六  京を出て、勢田の橋へ向かう途中の道に、人だかりがあった。  近在の者や、旅姿の者たちが、道の端に集まって騒いでいるのである。  何事かと馬を寄せて、馬上から人の頭ごしに覗けば、そこに一頭の馬が倒れていて、血溜りの中で息絶えていた。はらわたが、そっくり丸ごと無くなっている。 「わたしの馬です」  平重清が言うと、人だかりの中から、 「重清さまじゃ」 「重清さま、御無事で」 「重清さま」  三人の男が出てきた。 「おう、おまえたちか」  いずれも、重清の従者たちであった。  馬を降りて、三人の話を聴いてみれば、あの晩、重清が馬で走り去った後、家の中から、黒い不気味な風のようなものが飛び出してきて、重清の後を追っていったという。 �逃げよ──�  と重清が言っていたので、家を出て外で野宿をし、朝になって重清の姿を捜しながら京へ向かって歩き出した。  勢田の橋を過ぎ、ここまでやってきたら人だかりがある。  見れば、重清の馬が、はらわたを何ものかに喰われて死んでいるではないか。  重清の姿はどこにもない。  さては、重清は、鬼に喰われて死んでしまったか──  そう嘆いていたら、重清の声が聴こえてきたので、こうして今御前にいる次第であると従者たちは言った。 「ともかく、互いに無事で何よりであった」  重清は、従者たちにこの馬の屍体の後始末を命じ、 「それが済んだら、先に京へ入っておれ」  そのように言いつけた。 「重清さまは?」 「わたしは、わたしの方の後始末をつけてくる。詳しい話は後じゃ」  そうして、晴明たちはまた東へ向かった。      七  晴明たちの一行は、勢田で馬を降り、橋の上に立っていた。  馬は、土手の柳につないである。  晴明、博雅、重清──  そして、紺の古びた小袖を着た呑天がいる。  呑天は、もともとは、広沢の寛朝僧正のいる遍照寺の池に棲んでいた亀である。  今は、縁あって晴明の式神《しきがみ》となっている。  勢田の橋は、琵琶湖から流れ出す勢田川に掛かった橋である。  晴明たちの足の下を、太い水のうねりが流れてゆく。  昨夜、重清がこの橋下に降り、柱の陰に身を隠している。 「昨夜は、もう生きた心地もなく震えておりました。今は皆さまと御一緒で、こうして昼の明りの中におりますので気持ちも落ちついてまいりましたが、それでも、ここでのことを思い出すと、何やら恐くなってまいります──」  重清は言った。 「今は何も、御心配されるにはおよびませんよ」  晴明は、言いながら、琵琶湖から渡ってきた風に頬をなぶらせている。 「ここで、何をしているのだ、晴明よ」  博雅が訊いた。 「待っているのさ」 「何をだ」 「寛朝僧正さまからの文をさ」  晴明は、空を見あげた。  青い天が広い。  と── 「来たぞ」  晴明が言った。 「来た? 何がだ?」  博雅が、晴明が見あげている西の空を眼で追うと、何やら、ぽつんと空に浮かんでいるものがあった。  それが、次第にこちらに向かって高度を下げてくる。 「言ったではないか、寛朝さまからの文だ」  それは、ゆっくりと天から降りてくると、晴明の胸の高さに浮いて止まった。  見れば、古びた木製の鉢であった。  その鉢の中に折った紙が入っている。  晴明がその紙を手に取ると、鉢は再び天に浮きあがり、西の方角に向かって飛び去っていった。  紙を開いて、晴明はそれを読み、 「なるほど」  うなずいた。 「下の河原へ降りましょう」  晴明にうながされるまま、一同は、土手から下の河原に降りた。 「呑天よ、その三番目の柱の根元を、三尺ほど掘ってみてくれぬか」  晴明が言った。  呑天が、素手で川原の石をどかしながら、三番目の柱の上流側を掘りはじめた。 「晴明よ、あれは何をさせているのだ」  博雅が訊いた。 「寛朝さまから、文をいただいたのでね」 「文?」 「ここに、千手観音が埋まっている」 「千手観音?」 「十六年前、この橋を架ける時に埋めたのさ──」 「何だって?」 「よく、この橋が流されるというのでな、人柱をたてようという話もそのおりあったらしいが、寛朝さまがそれをおとめになって、代わりに、銅の千手観音の菩薩像を、ここに埋められたのさ」 「ほう」  博雅が言った時、呑天が低い声で唸った。  はたして、その柱の根元から、赤子くらいの大きさの千手観音の像が出てきた。  それを見れば、その像の身体のあちこちに、何かが齧ったような歯型がついている。 「こちらが、昨夜のあなたの身代わりとなって、妖物に喰われたのですよ」  晴明が言った。 「この像が──」  重清が、像を手にとって言った。 「はい」 「思わず、柱にしがみついて『観音経』を唱えたのですが、そのおかげで──」 「そういうことでしょう」  重清は、ていねいにその像を河原に置いて手を合わせた。 「さて、呑天。こちらを丁重にまた埋めもどしておいてくれ」  晴明は博雅を見やり、 「さあ、次へゆくとしよう」  そう言った。 「次?」 「重清殿が昨夜泊まろうとした家さ」  晴明は言った。 「う、うむ」 「その前に呑天、その仕事がすんだら、もうひと仕事してきてはくれぬか」  晴明が、像を埋めもどしている呑天に声をかけた。 「いくらか銭を渡すので、それで、この近在から、五、六匹の猫を集めてきてくれ」      八  集められた猫と共に、その家の前に立った時には、もう、夕刻が迫っていた。 「本当に大丈夫でしょうか」  さすがに重清は怯えの色を隠せない。 「だいじょうぶです」  涼しい顔で晴明は答えた。  晴明が、灯火を手に持って、屋敷の中に入ってゆく。  荒れはてた、草ぼうぼうの庭であった。  晴明の屋敷の庭とはまるで違っている。  博雅、そして重清がその後に続く。  呑天は、背に大きな籠を負って、三人の後からついてゆく。  もう薄暗い。  家の中へ入ったら、夜と同じであろう。  晴明は振り返って、 「一緒に行かれますか」  重清に問うた。  重清は、一瞬、息を呑み、覚悟を決めたように、 「ゆ、行きます……」  掠《かす》れた声で言った。  簀子から上がった。  みしり、みしりと板を踏んで、中に入ってゆく。 「ここです。ここでわたしは昨夜──」  重清が言った。  灯りをかざしてみると、そこに鹿皮の敷皮が敷いてあった。 「あれか」  晴明は、部屋の隅を見やってそう言った。  そこに古びた大きな鞍櫃が置いてあった。  蓋が閉まっている。 「そ、そうです」  重清が、身体をがたがたと震わせた。  歯が触れあって、かちかちと音をたてている。  と── 「臭うなあ……」  鞍櫃の中から、不気味なくぐもった声が聴こえてきた。 「この臭いは、昨夜の平重清だなあ……」  鞍櫃の蓋が、小さく浅く、浮いたり下がったりしはじめた。 「待っておれ、もそっと暗うなったら、出て啖うてやるからなあ」  鞍櫃の中で、何かが身じろぎするような音がする。  晴明が、眼で合図をすると、呑天が背に負っていた大きな籠を床に下ろした。 「何をしておる」  妖物が言った。 「ひとりではないな」  がたがたと鞍櫃が鳴って、蓋が持ちあがってきた。 「もう夜ぞ。皆まとめて啖うてやろうか」  じわじわと鞍櫃の蓋が開き出した。 「ひいっ」  重清が声をあげた。  走って逃げ出した。 「待て」  声が言った時、 「今ぞ」  晴明が、呑天に言った。  呑天が、籠の蓋を開けた。  籠の中から躍り出てきたのは、七匹の猫であった。 「外へ、博雅!」  晴明が、博雅の手を引いた。  晴明に続いて、博雅が外へ向かって走った。  呑天が、その後に続いた。  先に庭へ出ていた重清に追いついた。 「晴明さま!?」  重清が、晴明にしがみついてくる。 「大丈夫です。しばらくここで様子をうかがうとしましょうか」  晴明が、草の中に立ち止まって、家の方を振り向いた。  家の中では、激しく何ものかが闘っているらしい。  猫の声や、得体の知れない獣の唸り声や吼える声が、中から届いてくる。  何かを倒す音。  引っ掻く音。  獣の叫び声。  しばらくそういう音が続いていたが、やがて、静かになった。 「では、入ってみましょうか」  晴明が言った。  灯りを手にした晴明が先に簀子に上がり、家の中に入ってゆく。  それに、博雅、重清、呑天が続いた。  中に入った晴明が、灯りをかざした。  床に、おびただしい血が流れていた。  肉片や、獣の毛が柱や床の板にこびりついている。 「やはりな」  そう言ったのは、晴明であった。 「これは──」 「なんと──」  博雅と重清は、驚きの声をあげていた。  床に、小牛ほどの大きさの鼠が、血まみれになって横たわり、息絶えていた。  その肉を、傷だらけになった七匹の猫が食べていた。 「妖《あや》しの鬼の正体は、この大鼠でしたか」  重清が言った。 「はい」  晴明がうなずいた。 「四十年生きると、鼠も人の言葉をしゃべるとか。長く生きた鼠が、この家に棲みついて悪さをしていたのですね」 「そういうところでしょう」  晴明は、大鼠を見下ろしながら言った。 「しかし、晴明よ」  そう言ったのは、博雅であった。 「おまえ、はじめから猫を呑天に用意させたということは、つまり、この正体が鼠であるとわかっていたのか」 「だいたいのところはな」 「何故わかった」 「今朝、築地塀の上で見つけた獣の毛があったろう」 「うむ」 「あれに呪をかけて試したのさ」 「試した?」 「色々の獣の名を紙に書いて、あの毛を上から何本も落としてみた──」 「───」 「他の獣の字の上には、毛は落ちたが、猫の字の上には一本も落ちなかったからな」 「そういうことであったのか」  感心したような声で、博雅は言った。 「さて、もどろうか、博雅よ。おれの屋敷にもどる頃には月も高く昇って、昨夜の続きで酒でも飲むことができるだろうよ──」  晴明は、微笑を浮かべてそう言った。 [#改ページ]   覚《さとる》      一  青い光が、ふわりと闇に浮きあがる。  蛍が飛んでいる。  ひとつ、ふたつ。  池の面《おもて》に、蛍の色が映っている。  池のあたりを舞っていた蛍が、時おり簀子《すのこ》の方まで飛んできて、酒を飲んでいる晴明《せいめい》と博雅《ひろまさ》の眼の高さで光る。 「なんともはかなげな色だなあ、晴明よ」  博雅は、杯の酒を口に運びながら、うっとりとした声で言った。  酒を飲み干してから、 「あれで、なかなか蛍の生命は短いのだ……」  ぽつりと博雅がつぶやく。  晴明は、うなずくでもなく、聴こえぬふりをするでもなく、紅い唇にあるかなしかの微笑を含んで、静かに酒を飲んでいる。 「露子姫が言っていたことがあったが、蛍というのは、小さき頃は、親と似つかぬ姿をしていて、水の中に棲んで貝を喰《くろ》うて大きくなってゆくそうな」 「───」 「地上に出てきて、ああやって光っているのは、十日もあるかどうかということだ……」  灯火がひとつ。  その灯りの中で、簀子の上に置かれた瓶子《へいし》が炎の色を映して赤い。  その瓶子を手にとって、博雅は自分の杯に酒を注いだ。  瓶子を置き、また杯を手に取って、 「はかなきものほど愛おしく思えてくる……」  溜め息と共に博雅は言った。  ふたりの横には唐衣《からぎぬ》を着た蜜虫が座して、時おり空になった杯に酒を満たしているが、晴明も博雅も、ほとんど手酌ですませている。  蛍が、夜の闇をふわりと動いて、ふっと消える。  消えた蛍の光の流れた方を眼で追うと、思いがけない場所で、さっき消えた蛍のものと思える光が、またふっと点《とも》る。  夏の虫が、叢《くさむら》の中で、静かに鳴いている。 「心であったか、魂《たま》であったか……」  博雅がつぶやく。 「どうした?」  晴明が、低く博雅に声をかける。 「思い出したよ。さる姫が、あの蛍のことを魂にたとえて歌をお詠みになったそうな」 「ほう」 「こういう歌だ」  博雅は、思い出したというその歌を、ほそほそとした声で唱えた。   物|思《も》へば沢のほたるも我身より   あくがれ出《いづ》る玉かとぞみる  玉──つまり魂《たま》のことである。 「貴船《きぶね》に詣でてお詠みになられた歌だそうな」 「貴船に詣でて、つれない男にむかって詠んだというわけだな。貴船というところがなかなか怖い話ではないか」 「そういう話にするな、晴明──」 「確か、返歌《かえしうた》があったはずだが」  博雅の言葉が聴こえなかったように、晴明が訊いた。 「よく知っているではないか、晴明よ」  博雅はそう言って返歌をまた唱えた。   おく山にたぎりておつる瀧つ瀬の   玉ちるばかりものな思《おもひ》そ 「姫が歌をお詠みになった後、どこからともなくこの歌が、さびさびとした声で聴こえてきたそうだ」  そう言った。 「まあ、その歌の通りだな」  晴明が、博雅を見やりながら言った。 「歌の通りとは?」 「深い山や森に限らず、神《かむ》さびた場所であまりものを思いすぎると、それこそ魂《たま》が蛍のごとくに身の裡《うち》より外へ出てしまうようなこともあるということさ」 「何のことだ、晴明──」 「その様子では、まだ、紀道孝《きのみちたか》どの、橘秀時《たちばなのひでとき》どののことは、耳にしてはいないか」 「いや、おふたりが、何やら気の病《やまい》にかかられたことは聴いているが、それがどうしたのだ」 「覚《さとる》さ」 「覚?」 「ああ」 「何だ、それは?」 「唐土《もろこし》の妖魅《ようみ》の類《たぐい》さ」 「妖魅だと?」 「まあ、聴けよ、博雅──」  そう言って、晴明は杯の酒を干して、空になった杯を簀子の上に置いた。 「五日前だ──」  晴明は言った。 「最初は、源信好《みなもとののぶよし》どのと藤原恒親《ふじわらのつねちか》どのだったのさ」 「最初?」 「件《くだん》の道観《どうかん》にお出かけになったのがさ」      二  その道観は、ちょうど五条大路と六条大路の間の、馬代小路《ばだいこうじ》に建っていた。  そこへふたりが出かけていったのは、 「『白氏文集《はくしもんじゆう》』がきっかけだったのさ」  と晴明は言った。 「『白氏文集』?」 「ああ」  晴明がうなずく。 『白氏文集』──つまり唐の詩人白楽天の詩が収められている書のことである。  わかり易く言えば、詩集のことだ。 「その中に『尋[#二]郭道士[#一]不[#レ]遇』というのがある──」 「う、うむ」  博雅はうなずいた。  宮中でのたしなみとして、『白氏文集』に眼を通しておくのは、誰もがひと通りは心得ておくべきことであった。  もちろん博雅も『白氏文集』は読んでいる。  白楽天の『琵琶行』、『長恨歌』は宮廷での基礎教養と言っていい。  件の詩は、ある時、白楽天が道士の郭《かく》を訪ねて行ったのだが、遇わずにもどってきたという意味の題で、読み下すと本文は次のようなものになる。   郡中に仮《か》を乞《こ》うて 来たりて相訪《あいと》うに   洞裏《どうり》 元《げん》に朝《ちよう》して 去りて遇わず   院《いん》を看《み》るは 祇《た》だ双白鶴《そうはくかく》を留《とど》め   門に入れば 惟《た》だ一青松《いちせいしよう》を見る   薬鑪《やくろ》 火有《ひあ》り 丹《たん》 応《まさ》に伏《ふく》すべし   雲碓《うんたい》 人無《ひとな》く 水 自ずから舂《うすづ》く   参同契中《さんどうけいちゆう》の事を 問わんと欲《ほつ》すれども   更《さら》に期《き》せん 何《いず》れの日にか従容たるを得《えん》を 「それがどうしたのだ」 「中に�院《いん》�とあるが、これが道観のことだ──」  道観──つまり道教の寺のことであり、道士がそこで修行をしたり暮らしたりする。  信好と恒親のふたりは、その晩、杯をかわしながら白楽天の詩の話をしていた。  そのおり、話がこの『尋郭道士不遇』におよんだ。  これは、白楽天の他の詩、たとえば『長恨歌』や『琵琶行』に比べれば、特別に有名な詩ではない。  しかし、たまたまこの詩の意についてふたりの意見がわかれたのである。  白楽天が、道士の暮らす道観を訪ねて行ったおり、そこに本当に道士がいたのかいなかったのかということで、 「いたのである」  源信好は、このように主張した。 「いや、いなかった」  というのが、藤原恒親の主張であった。  この当時、白楽天は四十代の半ばくらいであり、江州司馬《こうしゆうしば》という役職にあった。  役人とはいえ、閑職である。 �仮を乞うて�  つまり、仕事の休みをもらって郭道士《かくどうし》に会いに出かけて行ったのだが、わざわざたいそうに�仮を乞うて�と書くほどのこともないくらい、白楽天には自由な時間があったのである。  しかし、訪ねて行ってみれば、世間的には役人よりは暇《ひま》そうな、道士の郭の方が忙しそうにしていて姿が見えない。  そこで白楽天は郭に会わずに帰ってきたという詩なのだが、 「よいか、�薬鑪《やくろ》 火有り 丹 応《まさ》に伏《ふく》すべし�とあるのは、これはもう丹を作るためにあれこれとやっている最中であったということではないか。たとえば恒親よ、おまえが飯《いい》の仕度をしていたとして、火をおこし、水を汲《く》んで、準備ができたところで、どこかへ出かけてゆくか?」 「だから、それほど大事な急用ができたということではないのか」 「恒親よ、おまえは詩のことがわかってはおらん」 「なに」 「郭道士は、座をはずしてはいたのかもしれないが、道観の中にはいたのだ。それをもちろん白楽天先生は知っておられたのだ。しかし、閑職とはいえ、仕事中でありながらのこのこと会いにやってきた御自分がはずかしくなって、それで白楽天先生は、会わずに帰ってきたということではないか」 「はずかしいのなら、何でそれをわざわざ書くのだ」 「そこが白楽天先生の才《さい》ではないか」 「才だと」 「はずかしい時に、わざわざはずかしいと書いたらあたりまえすぎるではないか。�更に期せん 何れの日にか従容たるを得《えん》を�と書くから、これが、おくゆかしさではないか。いつかまた会える時もあろうよと言っている御自分の姿を、わざと悠々として書いてみせ、その裏ではそういう御自分の姿をどこかで笑っておいでなのだ。それがわからぬのか──」  そういう話をしている時に、 「そう言えば、京内に道観があったな」  恒親が言い出した。 「道観だと?」 「うむ。あれが本当に道観かどうかはわからぬが、唐風《からふう》の青|瓦《がわら》の屋根の屋敷が、六条に近い馬代小路にあったはずじゃ」 「ほう」 「どうじゃ、何ならこれからそこまで行ってみようではないか。そこで、あらためてこの話の続きをしようではないか。これこそが風雅の道というものぞ」 「いや、思い出した。確かにそのような屋敷があったはずだが、今は住むものもなく荒れはてていると聴いておるぞ」 「うむ」 「それに、もうひとつ思い出した。何やら、その道観には、よからぬものの類《たぐい》が出るというので、あまり人は近寄らぬという話ではなかったか」 「近寄らぬというは、あたりまえではないか。人も住まぬで荒れはてておれば、誰がわざわざゆくものか」 「しかし──」 「臆病な。独りでゆけと言うているのではないぞ。おれもゆくからおまえもゆこうと言うているだけではないか」  恒親にここまで言われては、信好も後にはひけない。 「ならば、ゆこう」  二台の牛車《ぎつしや》に乗り、互いの供の者たちを連れて、ふたりは件の道観まで、夜道を出かけて行ったのであった。  着いてみれば、土塀のあちらこちらは崩れ落ち、中は夏の草が思うさま繁っている。  月の明るいのを幸いに、壊れた門より中をうかがってみれば、唐風の、屋根の反った道観の影が見えている。  信好も恒親も、ここまで牛車で揺られて来るうちに、熱は醒めていた。恒親にしても、ああは言ってみたものの、今さらこの荒れはてた体《てい》の道観で話をする気はなくなっていた。  もうこれで気はすんだ、帰って寝ようではないか──そう言いたい。  しかし、それを、ここで自分から口にするのもためらわれた。  供の者たちの手前もあり、ここでこのまま帰ってしまうというのも体裁が悪い。  こういうことは、必ず風聞として宮中に広まるものである。  行ってはみたものの、ふたりとも臆病風に吹かれて中にも入らず逃げ帰ってきた──そのように噂され、あちこちで囁かれるのもくやしい。  困った。  信好も恒親も、門前に立ったまま動けない。 「誰ぞ、中の様子を見てまいれ」  供の者の中からふたりを選び、松明《たいまつ》を持たせて門の中へやった。  しかし、これがなかなかもどってこない。  一刻、二刻|経《た》ってもまだ帰ってこない。  外から声をかけて呼んでみても、返事もない。  さらに供の者を中へやって様子を見にゆかせようとも思ったのだが、連れてきた供の者は、信好、恒親、合わせて四人である。すでにふたりを先に中へやってしまっているので、残っているのはふたりだ。  このふたりを、様子を見に中へやってしまったら、いずれにしても信好と恒親はここにふたりだけとなってしまう。  いやがるひとりに、ふたりを見つけてきたら褒美をやるからと、無理に説きふせて中へやった。  ところが、この男もまた、中へ入ったきりもどってこない。  三人で、中へ声をかけたり、男の名を呼んだりしてみたが、応えはない。  おろおろとしている間に、月も傾き、東の空がほんのりと明るくなった。  朝がきて、あたりが明るくなってから、残った供の者を中へやってみたら、なんと三人は無事であった。  三人とも、それぞれ庭の草の中で、呆《ほう》けたように突っ立っていたのだという。  どこにも怪我《けが》はなかった。  ただ、三人とも魂が抜けたようになって、名を呼んでも、それが自分の名であることすらわからぬようになっていた。 「生まれたての、赤子のようになってしまったということだな」  晴明は言った。 「赤子?」  と、博雅が問う。 「人であるという呪《しゆ》以外、どのような呪も、その三人から消え去ってしまったということさ」 「また呪か」 「飯は、口に運んでやれば喰う。厠《かわや》へ連れてゆけば、そこで糞も尿《いばり》もするが、連れてゆかねば、その場で……」 「むうう」  晴明の言葉に、博雅は言葉もなく唸った。 「三人とも、鬼に魂でも抜きとられたのだろうということになった……」 「で、晴明よ、紀道孝どの橘秀時どのも、件の道観に?」 「行った」 「いったい、何故、おふたりは、そのようなことを──」 「源信好どのと、藤原恒親どのから話を聴いたのさ」 「しかし、聴いたのならゆかぬはずではないか。聴いておきながらどうして出かけて行ったのだ」 「話を聴いてな、道孝どのと秀時どのが、信好どのと恒親どのをからかったのさ」 �臆病者め�  とまず秀時が言った。 �その通りじゃ�  と道孝が相槌《あいづち》を打った。 �どうしてすぐに助けに入ってゆかなんだのか。早く行っていたら、ことによったら従者どももあのようにならずにすんだのではないか� �外でおろおろと、朝まで震えていたらしいなあ�  恒親も信好も、こう言われてはよい気がしない。 �震えていたわけではない� �あの場合、誰だってあのようにする� �あそこにいたら、道孝どの、秀時どのでも我らと同じようにしたはずだ�  ふたりはこのように言った。 �いや、我らならそこまで臆病ではないぞ� �その通りだ� �ならば、御自分たちで試されてみればよろしかろう� �うむ。御自分たちふたりだけで、あの道観の中へ入ってみられたらどうじゃ� �そうじゃ、できるか�  信好と恒親が言うと、 �できる� �おう�  勢いでつい道孝と秀時も答えてしまった。 「で、そうなってしまったということさ」  晴明は言った。 「なるほど、それで道孝どのと秀時どのは、件の道観にゆかれたのか」 「うむ」  晴明がうなずいた。      三  信好と恒親も一緒であった。  牛車が四台──四人は供の者たちを連ねて西へ向かい、夕刻には道観の前に着いていた。  西の山に陽は落ちて、すでにあたりは暗くなりかけている。 「さあ、じきに夜になるぞ」  恒親が言った。 「すぐに暗くなる」  信好が言った。  声のどこかに嬉しそうな響きがある。  秀時と道孝が、怯えているのがわかるからである。 「む、む」 「う、む」  秀時と道孝の表情が強張《こわば》っている。  その顔色を楽しそうにうかがいながら、信好と恒親が交互に言う。 「ゆくのはもう少し暗くなってからじゃ」 「片足を門の中へ踏み入れて、それでもどってくるというのでは行かないも同じぞ」 「そうじゃ。道観の中に入って何か行ったという証《あかし》の品でも置いてきてもらおうか」 「おう、それは妙案」 「幸いにも、これに文箱《ふばこ》に使う紐《ひも》がある」  信好が、懐から一本の赤い紐を取り出した。 「道観の中へ入って、柱の一本にふたりでこの紐を結んできてもらおうか」 「明朝、誰かをやって、本当に道孝どのと秀時どのがゆかれたかどうかを調べさせればよい」  道孝も、秀時も、 「う、うむ」 「お、おう」  力のない声でうなずくばかりである。  道孝も秀時も、勢いで、勇ましいことをいってはみたものの、いざこうなってみると、元気がない。よい理由さえ見つかれば、行くのをやめたいと思っている。  信好と恒親にしても、気持には複雑なものがある。  ふたりにとって一番よいのは、道孝と秀時が行くのをやめることだ。道孝と秀時を追いつめて、ふたりが本当に道観の中に入ってゆき、何事もなくもどってきてしまったら、今度は、笑いものになるのは自分たちになってしまうからである。  すでにあたりは暗くなり、夜となっていた。  用意してきた松明に、火が燃えている。 「し、しかし、よいのか」  道孝が言った。 「何がじゃ」  恒親が言った。 「も、もしも我らが本当に中に入って、紐を柱に結んでもどってきたら、困るのはぬしらの方ぞ」  恒親と信好がおそれていることを、道孝は口にした。 「よ、よいとも」  信好が答えたのもまた、勢いである。  これで、どちらも引き下がれなくなってしまった。  そして、ふたりは、本当に門をくぐって中に入っていったのである。      四  西の京──  昼でさえ、人家は少なく、木立が地を覆っている。  夜ともなれば、自分たち以外に人の気配はまったくない。  中へ入ってみれば、風草や藪からしなど、夏の草が地を覆っていて、腰近くまであるそれらの草を分けて行かねばならない。 「お、おい」  道孝が、前をゆく秀時に声をかける。 「なんだ」  秀時が、足を止めて道孝を振り向いた。  秀時が松明を持ち、道孝が紐を懐に入れている。  秀時を見ている道孝が、凄い顔になっている。頬の肉が強張って、松明の灯りで見ると、この世のものとも思われない。 「そんな顔をするな」  秀時は言った。 「顔?」  道孝の顔が、ますます、異様になってくる。 「もういい。それよりなんだ」  秀時が訊いた。 「こ、こわくはないか」  道孝が訊いた。 「言うな」  秀時が言った。 「何故だ」 「言えば、言うだけこわくなるからだ」 「ほら、おまえだってこわいのだ」 「こわいさ。いつおれがこわくないと言ったのだ」 「あ、安心した」 「おまえ、おれをこわがらせて、自分が安心しようとしているのか」 「なんのことだ」 「一緒にいる者が自分よりもこわがっていれば、自分がこわくなくなるからだ」 「そんなことはない」 「しかし、おまえは今、安心したと言ったではないか」 「言ったが、それは、今、おまえが言ったこととは別だ」 「何が別なのだ」 「だから、安心したとは言ったが、それを言いたくて、わざわざおまえに声をかけたのではない」 「もういい」  秀時は言った。 「こわいのはおまえのその顔だ」 「おまえの顔だってこわい」  互いに言いあってから、ふたりは、見えぬ冷たい手で背を撫であげられたように顔をひきつらせた。  ふたりは、口から出そうになった悲鳴を押し殺した。  顔を見合わせたまま、ふたりは沈黙した。  その沈黙に耐えられなくなったように、 「ゆ、ゆくか……」  道孝が言った。  しかし、足が動かない。  すでに、ふたりが着ているものの裾が、草に凝《こ》った夜露を吸って、ずっしりと重くなっている。  すぐ向こうには、道観の建物の影が見えている。  月が荒れ果てた庭に射している。 「も、もどるか」  道孝が言った。 「ここでもどったら、あのふたりに馬鹿にされるだけだ」  秀時が、また、道観の方に向きなおって、濡れて冷たくなった裾を引きずって歩き出した。  その背へ、 「お、おまえがいけないのだ」  道孝が声をかける。 「何のことだ」  歩きながら秀時が答える。 「おまえが、あのふたりをからかうからついおれも──」 「人のせいにするな。だいたい、ふたりにそそのかされて、ゆくと言ったのはおまえではないか」 「おまえがゆくと言ったのだ」  言いながら歩いてゆくうちに、道観は、もう眼の前であった。 「じきだ」  秀時が言った時── 「もうし──」  声がかかった。  秀時の声でも、道孝の声でもない。  秀時は、道孝を振り返り、 「今、何か言ったか」 「言わない。言ったのはおまえではないのか──」 「おれではない」  と言っているところへ、 「もうし──」  また声がかかった。  ふたりが首をめぐらせてみると、腐って瓦《かわら》も軒《のき》も落ちた軒下に、何やらぼうっと白い影のごときものが見える。 「あ、あれを」 「女だ」  そう言ったのは、秀時であった。  女が、立っていた。  白い衣《きぬ》を着た女が、腐った簀子の上に立ってこちらを見ていた。  悲鳴をあげて逃げ出すところであったが、 「こわいかえ……」  その悲鳴の間《ま》を奪うように女が細い、透き通った声で言った。  ふたりは、声もあげられず、沈黙したまま草の中に立っていた。 「今、逃げようと思うたな」  女が言った。  すうっと、女が簀子から降りてきた。  女が、こちらに向かって歩き出した。近づいてくる。  秀時が、思わず、半歩退がった。  道孝の膝が震えた。  そうだ、刀を持ってきていたはずだ。  刀を── 「刀でわらわを斬ろうと思うたな」  女が言った。  その時には、もう、女が眼の前に立っている。  何という速さか。  この世のものとは思われない。  草を分ける音もしなかった。 「この世のものではない──そう思うたな」  女は、秀時に向かって言った。  秀時は、自分の身体が震えるのがわかった。  どうして、この女は、自分の考えていることがわかってしまうのか。 「どうして自分の考えていることがわかってしまうのか──そう思うたろう」  何から何まで言いあてられてしまう。  どうしたらよいのか。 「どうしたらよいのかなあ──」  女が笑った。  誰か、助けてくれ──  道孝は思う。 「誰か、助けてくれ」  女が、笑いながら言う。  来なければよかった。  来なければよかった。  こいつがいけない。  こいつがいけない。  つまらぬ意地など張らねばよかった。  つまらぬ意地など張らねばよかった。  ああ──  ああ──  誰か。  誰か。  その時──  秀時の持っていた松明の火がはぜ、火の粉が飛んで秀時の頬に触れた。 「熱《あつ》っ」  思わず松明を取り落として、手で頬を押さえた。  落ちた松明が、女の足元に転がった。 「あっ」  と小さな声をあげて、女が後方に退がった。  その途端、秀時と道孝の身体が自由になった。 「わ」 「わ」  ふたりは声をあげ、腰まで繁った草を両手で掻きながら、泳ぐようにして門まで駆けた。  秀時と道孝が、青い顔をして門から転がり出てきた時、信好も恒親も、笑うことを忘れて、思わず後方へ飛び退いていた。 「で、出た」 「女じゃ」 「妖《あや》しの女じゃ」 「おそろしや」  そう叫んでから、秀時と道孝は地に倒れ伏し、そのまま動かなくなってしまった。      五 「で、以来、秀時どのも道孝どのも、気を病んでしまわれたのだよ」  晴明は言った。 「屋敷へもどってから、おふたりに家の者があれこれ問うて、ようやく今のような話のあったことがわかったのだが、おふたりとも日々のことをなんとか御自分ですることができる程度で、一日中屋敷から出ずに座しているか寝ているかということらしい」 「らしいな」  博雅がうなずいた。 「家の者の顔が、時にうまく判別できず、昔のことなどほとんどお忘れになってしまっているということだ」  晴明が言った。 「で、晴明よ。最初におまえの言っていた覚《さとる》だが、それがこのこととどういう関係があるのだ」 「だから、おふたりは、あの道観で覚に出会ったのさ」 「おふたりが出会った女が、その覚ということか」 「まあ、そうだ」 「何なのだ、その覚というのは──」 「山中に棲むと言われている妖物の類《たぐい》だな」 「妖物」 「もともとは、唐《から》から渡ってきた妖物だということだが、なあに、この倭国にもいるし、どこにでもいる。木霊《こだま》と呼ばれている|もの《ヽヽ》もまあ、覚の類さ」 「ほう」 「覚は、人の心を読む」 「何?」 「読むというよりは、喰べるという方がよいかもしれぬな。人が、何を考えているのか、覚にはわかるのだ。次々に覚に心を言いあてられているうちに、人は、しまいには心が空《から》になってしまうのだ」 「では、最初に道観に入っていった、恒親どの信好どのの従者たちは、そこで覚に会って──」 「そういうことだろう」 「道孝どのと秀時どのが、最初の三人よりもまだなんとか御自分のことができるというのは、つまり──」 「心の中を全部言いあてられぬうちに、逃げることができたからであろう」 「むうう」 「考えてやることだと、心を言いあてられてしまうので、なかなか覚をやっつけるということはできぬのだが、秀時どのは、火の粉の熱さに、思わず松明をとり落とした。このことがよかったのであろう」 「ふうん」 「唐土《もろこし》でもな、思わぬことで、覚を追い返した者もいる」  晴明は、それを博雅に語った。  山里に住むある男が、家の前で籠《かご》を編《あ》んでいた。  すると、眼の前に奇妙なものがいることに気がついた。  猿ほどの大きさで、猿にも身体つきは似ているが、顔は人のようである。  眼が合った。  すると、その猿のようなものが言った。 「奇妙なものがいると思っているな」  言われて、男は驚いた。  どうして自分の考えていることがわかったのか。 「どうして、自分の考えていることがわかったのかと思っているな」  また言いあてられた。  ああ、これが噂の覚というものか。 「おれのことを、あの覚だと思っているな」  何でも言いあてられて怖ろしくなった。  こうなったら、横に置いてある竹を裂くための鉈《なた》で、いきなり切りつけてやろう。 「その鉈で、おれを殺すつもりでいるだろう」  また言いあてられた。  どうしてよいかわからない。  このままでは、この覚に喰われてしまうかもしれない。 「そうか、おまえ、喰うて欲しいのか」  覚が、ぴょんと跳んで近づいてきた時、あまりの怖ろしさに、思わず手が震えて、編もうとして押さえていた竹から指が離れた。  それまでたわんでいた竹が、男の指先から跳ねて覚の眼にあたった。 「痛い」  覚は眼を押さえて、跳び退がった。 「ああ、時おり人は、考えてもいないことをする。これだから人は怖いのだ」  そう言って、覚は山へ逃げ帰っていったという。  そういう話である。 「で、どうする、博雅?」  晴明が訊ねた。 「どうするって?」 「明日の夜、件の道観まで行くことになっている」 「行く?」 「おまえもゆくか」 「───」 「酒でも用意して、はたして何が出てくるのか見にゆくというのも、悪い趣向ではあるまい」 「行くのはかまわぬが、大丈夫なのか」 「何がだ」 「覚のことさ。考えていることを言いあてられて、心の中を空《から》にされてしまうのではなかったか」 「ゆかぬのか」  晴明が澄ました顔で訊いた。 「そうは言ってない」 「では、ゆくか」 「う、うむ」 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      六  半月が、空にかかっている。  崩れた軒から、月光がこぼれ落ち、晴明と博雅を青く照らしている。  簀子の多くは腐って抜け落ちてしまっているが、それでも、ところどころは、人が乗っても抜け落ちない場所がある。  そこに座して、晴明と博雅は酒を飲んでいる。 「しかし、こういう場所があったとはなあ」  博雅が杯を右手に持ったまま言った。  件の道観である。  崩れた簀子の間から、草が伸びており、庭はさらに伸び放題の草がみっしりと生い繁っている。  晴明の屋敷の庭も、野の草や花が、勝手に繁るにまかせているように見えるが、この庭と比べてみれば、晴明の屋敷の庭の方が、まだ手が入っているように見える。  灯火はない。月明りだけで、なんとかあたりの風景が見てとれる。 「その昔、何人か道士がここに入って修行していたらしいが、将門さまの乱の頃、住む者がいなくなって、以来そのままになっているらしい」 「しかし、晴明よ」 「なんだ、博雅?」 「おれには実はよくわからないことがあるのだ」 「何だ」 「覚のことさ。おまえ、唐の話をしていたが、その時、覚は、猿のごとき姿に見えたのだろう?」 「ああ」 「ではなぜ、道孝どのたちには女の姿に見えたのだ」 「それはな、木霊や覚には、もともと決まったかたちがないからなのだ」 「───」 「それを見る者の心が、そこに映るのさ」 「心が映る?」 「たとえば、今、ここに覚が現われたとして、おまえがそれを、人と思えば人に、猿のごときものと思えば猿のごとくに見えてしまう」 「しかし、道孝どのも秀時どのも、別にそれをはじめから女と思っていたわけではあるまい」 「それはそうさ」 「では、何故、女に見えたのだ。おまえの言う通りなら、おふたりはそこに別々のものを見るのではないのか」 「博雅よ。おまえの言う通りなのだが、こういう時、往々にして人は、そこに同じものを見てしまうのだ。人はそのようにできているからな。はじめ、道孝どのも秀時どのも、軒下に、白っぽいものがもやもやとしているのを見た。そこで、秀時どのがまず、�女だ�と叫んでしまった。秀時どのにはそれが女に見えたのだろう。それを聴いた道孝どのは、その言葉が耳に残っていたので、やはりそれが女に見えてしまったということなのだろう」 「では、おれには、それはどのように見える?」 「さあて──」  晴明は、おもしろそうに微笑して、杯の酒を唇に含んだ。 「ところで、博雅よ。もしもおまえが、覚と出会って無事でいたかったら、これからおれの言うことを聞いてもらわねばならぬ」 「何だ」 「おれが、来るぞ博雅と声をかけたら、その時からおまえは、おれがよしと言うまで絶対に口をきいてはならぬということさ」 「うむ」 「それから、これを身につけておけ──」  晴明が、懐から、何やら筆で呪文のごときものを書き記した紙片を取り出した。 「何だ?」 「呪符《じゆふ》だ。おまえのために書いておいた」  晴明は、その呪符を博雅に差し出した。  博雅はそれを受けとり、自分の懐におさめた。 「それを身につけておれば、声を出さぬ限り、おまえのことは向こうにわからぬ」 「わかった」  博雅はうなずき、 「しかし晴明よ、おまえはよいのか。もしも、覚──女が出てきたらどうするのだ」  そう言った。 「おれのことなら心配はいらぬ──」  そう言った晴明の眼が、すうっと細められた。 「来たぞ、博雅」  晴明に何か言おうとしていた博雅が、開きかけた唇を、慌てて閉じた。  晴明は、その視線を、草がぼうぼうと繁る庭の方に向けている。  博雅がそちらに眼をやると、白い衣《きぬ》を着た女が、ぼうっと草の中に立っていた。  その女は、月光を浴びて、全身が濡れたように光っていた。  女が、するすると簀子に近づいてきた。  繁った草の中を歩いてくるのに、草が動いているようには見えない。 「はて、ふたりいるかと思うたに、おまえだけか」  女が、晴明を見やり、ぬめりと唇を開いて笑った。  女の眉が、いぶかしげにひそめられた。  晴明は、女に視線を向け、静かに微笑している。 「どうしたのじゃ」  女が言った。 「何故、何も考えぬ」  女が、じれったそうに身をよじった。 「わらわが、おそろしくはないのかえ」  女が、晴明の顔に息のかかりそうなほど近くに、顔を寄せてきた。 「何故、思わぬ」  女が言った。 「何故、考えぬ」  晴明は、静かに微笑しているだけだ。 「どんなにわずかでもよい。何か考えてくれぬか」  言われても晴明は、黙っている。  微笑はその唇から消えない。  女は、胸の前をはだけ、ふくよかな白い乳房を月光にさらして、晴明の眼の前で揉みたてた。白い、細い指先が乳首をつまみ、その先を尖らせる。 「これが見えぬのかえ。これを見ても何とも思わぬのかえ」  次に女は、衣の裾をくつろげて、そそまでも月光にさらした。 「これはどうじゃ。そそられぬかえ」  女は身をくねらせながら言う。  しかし、晴明の様子にはどういう変化もない。  女は焦《じ》れてきた。  かあっ、  と口を開いて、赤い舌を見せた。  牙が、唇から、ぬうっ、ぬうっと生え出てきた。 「とりて啖《くろ》うてやるぞ」  めらめらと女の口から、青い炎が出る。  長い時間をかけ、脅したり、哀れみを請《こ》うたりして、女は晴明の心を揺らそうとする。  それでも、晴明に変化はない。  微笑を浮かべ、女を見つめているだけだ。 「ええい、ええい、どうして何も考えぬのじゃ。どうして思わぬことができるのじゃ」  女が苦しそうに、身をよじり、身体を押し揉むように首を左右に振った。  長い髪が左右に揺れ、女の顔と身体に巻きついた。 「ああ、これでは喰えぬ。喰えねばひもじゅうてならぬではないか」  女は眼から涙をこぼしはじめた。 「ひもじや、ひもじや……」  女が、苦しそうに喉をばりばりと掻きむしる。  知らぬ間に、女の顔が痩せてきていた。  肌の色が、だんだんと赤黒くなってくる。  女の動きに力がなくなってきていた。  そして、ついに、痩せ細って骨と皮ばかりになった女は、ばさりと草の中に倒れ伏すようにして、姿を消した。  さらに、だいぶ時間がたってから、 「もうよいぞ、博雅──」  晴明が言った。  博雅は、ほっと息を吐いて、 「どうなることかと思ったぞ、晴明──」  晴明の傍へ、膝でにじり寄った。 「おもしろいものを見たろう、博雅──」 「あ、ああ」  博雅はうなずいた。 「しかし、晴明、おまえも今のあれを見たのではなかったか」 「何も──」  晴明は言った。 「何も? 何も見なかったというのか」 「ああ。だから、後で、おまえの見たもののことをゆっくりと聴かせてくれ、博雅──」 「それはかまわぬが、では、おまえはここに座って、いったい何をしていたのだ」 「何も──」 「何もだと?」 「何も考えてはおらぬ。どういうことも思わず、ただ、おれはここに座していただけだ」 「そんなことができるのか」 「そこそこの修行を積んだ坊主なら、誰でもこのくらいはできようさ」 「そういうものなのか」 「やつは、啖うものがなかった。しかし、なまじこのおれが眼の前にいるし、その気配はあるものだから、消えることができぬ。喰えぬからますますひもじくなる。そのひもじさがさらに己れをひもじくさせて、ついには己れ自身を滅ぼしてしまったのさ」 「な──」 「まあよい。せっかく酒があるのだ。明るくなるまでここで飲んで、後のことは朝になってからということにしようではないか」  晴明は、瓶子を手に取り、酒を杯に注いだ。 「飲もう、博雅」 「う、うむ」      七  晴明と博雅が、簀子から降りて、草の中へ足を踏みいれたのは、あたりが明るくなってからであった。  朝露を宿して、きらきら光る草を分けてゆくと、 「おう、ここだ、博雅」  先を歩いていた晴明が立ち止まった。 「見よ」 「むう」  博雅が、それを見て、息を呑んだ。  草の中に、不思議なかたちをした獣が仰向けに倒れていた。  猿くらいの大きさで、姿は猿に似ていたが、顔は人間のようであった。 「これは?」 「覚さ」  晴明が答えた時、東の空に昇ってきた陽の光が、ようやくその庭に差し込んできた。  その光が、覚の身体に触れた時、大気に溶けるように、ふうっとその姿が消えた。  そのあとの草の中に、五つの玉が転がっていた。  みっつは大きな玉で、ふたつは小さな玉であった。  晴明は、その五つの玉を拾いあげ、 「博雅よ、これはいずれも、覚に喰われた者たちの心の灯ぞ。それぞれにこれを飲ませれば、皆もとのようにもどるだろう」  微笑しながら言った。 「さて、博雅よ。朝陽でも浴びながら、ゆっくり帰るとしようか──」 「うむ」  そうして、晴明と博雅は、その道観の門をくぐって外へ出、ゆっくり東へ向かって、帰っていったのであった。 [#改ページ]   針魔童子《はりまどうじ》      一  秋であった。  天が高い。  青い空を、白い筋をひいた雲が流れてゆく。  大気は澄み、乾いた風が吹いている。  竜胆《りんどう》。  桔梗《ききよう》。  女郎花《おみなえし》。  秋の花や草が、庭で揺れている。  その上にかぶさった楓《かえで》の葉が、すでに紅《あか》く色づいている。  明るい陽差しが、庭に注いでいた。  源博雅《みなもとのひろまさ》は、手に盃を持って、安倍晴明《あべのせいめい》と向きあっている。  晴明の屋敷の、簀子《すのこ》の上だ。  ふたりの傍に座した蜜虫が、盃が空になると、無言でそこに酒を満たす。  ゆるゆると酒を飲んでいる。  昼とはいえ、ただ簀子で風に当っていると寒さが肌に染みてくるが、酒が身体に入っていると、その風がちょうど心地よいくらいである。  時おり、楓の葉が枝から離れ、陽光の中を舞い落ちてゆく。  土の匂い。  落葉の匂い。  それらは、すでに夏のものではない。  血の如くに精気を含んでいた夏の匂いとは違って、生々しいものが抜け落ちてしまっている。  秋の匂いであった。 「ああやって、散ってゆく葉を眺めていると、なんだか不思議なこころもちになってくるな──」  博雅は、唇から離した盃を、簀子の上にもどしながら言った。  柱の一本に背をあずけ、庭を眺めていた晴明は、 「何が不思議なのだ、博雅よ」  顔を博雅に向けて言った。 「あの落ちてゆく葉がさ──」 「葉?」 「あの葉は、生きているのか死んでいるのか、そんなことを考えていたのだよ」 「ほほう」  晴明の紅い唇に、ほのかな笑みが点《とも》った。  博雅の言葉に興味を覚えたらしい。 「どういうことだ、博雅」 「あの、今落ちたばかりの葉なのだがな。枝から離れるまではおそらく生命《いのち》があったのではないか──」 「うむ」 「では、あの葉は枝から離れたその途端にその生命を終えてしまったのか──そういうことが、どうもよくおれにはわからないのだよ」  博雅は、蜜虫が満たした盃を手に取り、晴明を見た。 「たとえばだな、晴明よ。今落ちたばかりの葉は、枝から離れたとはいえ、まだ生きているようにみずみずしい。しかし、枝から離れずそのまま冬まで残って枝で枯れている葉も時にはあるではないか」 「うむ」 「たとえばだ、晴明。おれがまだ枝に残っている葉をちぎったら、その時その葉は死んでしまうということなのか」 「───」 「いや、葉ではなく枝の方がわかりやすいだろう。たとえばおれが、まだ蕾《つぼみ》の桜の枝を折ったとしよう。この枝は折られたとはいえ、まだ生命があるのではないか。その折った枝を甕《かめ》に入れた水の中に差しておけば、やがて蕾が開いて花が咲くからな」 「うむ」 「今、あそこに生えているあの楓は、まぎれもなく生命がある」 「あるな」 「あの葉も生きている」 「ああ、生きている」 「では、あの今落ちた葉はどうなのだ。生きているのか。まだ生きているのならいつ死ぬのだ。死んでいるのなら、いつ死んだのだ。そもそも、ひとつの樹の枝を折り、水に差して生かすということは、これは生命をふたつにするということなのか。そもそも、あの葉というのは、もともとひとつずつの生命なのか。ならばなんとたくさんの生命をあの樹は持っているのだろう。あるいは、人の腕でも足でも、あの枝のように切り落とされても、もしかしたらまだ生きているのではないか──」  そこまで言って、ようやく博雅は持っていた盃を口に運んだ。 「そういうことを考えていたらばだな、晴明よ──」 「うむ」 「何が何やらわからなくなってきてしまったのだよ。生命というものがいったいどのようなものであるのかわからなくなって、そのあげくに、結局──」  不思議である。  不思議だなあ──という溜め息となって口からその感慨が洩れてしまったのだと博雅は晴明に言った。 「それは、呪《しゆ》に関わることだな」  ぼそりと晴明は言った。 「また呪か──」 「呪の話はいやか」 「いやも何も、おまえが呪の話をすると、おれはいつも何が何やらわからなくなってしまうのだよ」 「しかし、呪の話をせぬでも、今だってよくわからぬと言っていたではないか」 「それはそうなのだが、しかし──」 「わかった」  晴明は、博雅の言葉を遮《さえぎ》ってうなずいた。 「何がわかったのだ」 「呪の話はせぬ」 「うむ」 「呪ではなく、水のたとえで話をしよう」 「水?」 「水というか、まあ、もう少し分かりやすくするなら、川ということにするか。たとえば生命とは川のようなものだ」 「川?」 「ああ、川だ」 「川がどうしたのだ」 「川とは何だ、博雅」 「川とはと言っても──」  博雅は、何か考えるように口ごもり、 「川は川ではないか」  そう言った。 「それはそうだがな、もう少し別の言い方はできぬか」 「別の?」 「川とは、流れのことだ」 「流れ?」 「高きから低きへ水が流れる──この流れることが、水を川たらしめているのさ」 「うむ」 「鴨川でも何でもよい。ここにひとつの川があるとする」 「うむ」 「水が流れている」 「うむ」 「その流れの中に、幾つ流れがある?」 「幾つって、それは、鴨川なら鴨川という流れがひとつきりではないのか」 「では、その流れを桶《おけ》にすくって、ある高き場所へ持ってゆき、そこから低き場所へ少しずつ流したとしたら──」 「したら?」 「それもまた流れであり、小さきながら川と言えば川と言えるのではないか」 「それはそうだが、しかし、すぐにその流れは止まってしまうぞ」 「折ってきて水に差した枝はどうなのだ」 「枝!?」 「その枝もまた、しばらく生きはするが、もとの樹よりは長く生きられぬ。これと同じではないか──」 「な──」 「ひとつの生命でありながら、そこに無数の生命がある。ひとつの流れでありながら、そこに無数の流れがある」 「む、むう」 「ひとつのものの中に無数のものがあり、無数のものもまたひとつのものなのだ。生命というのは、樹なら樹、葉なら葉のことではない。川──つまり流れというのが水のことではないようにな」 「───」 「しかし、生命というのは、樹でも葉でも花でも、虫でも、魚でも、そういうかたちなくしてはこの世にない。流れもまた同じぞ」 「───」 「流れとは、水のことではないが、水なくしてはまた流れもないのだ」 「───」 「ひとつの樹から、生命だけは取り出せぬ。川から水を残して流れだけを取り出せぬようにな──」 「むうう」 「まあ、これは、仏の教えで言えば、空《くう》ということだな」 「空?」 「この世のあらゆるものには呪がかかっているということさ」 「なに!?」 「仏法の空と呪とは、もともとは同じものさ。ただ、色あいが少し違うだけだ。呪というのは、いったん人の心の中を通り抜けてきた空のことさ。人が、空という仏法の原理に、人の香りをつけた──それが呪ということになる──」 「こら、晴明」 「何だ、博雅」 「おまえ、結局、呪の話をしたな」 「そうか、したか」 「した」 「うむ」 「おまえが、川の喩《たと》えで話をしているうちは、なんとなくわかったような気持ちになっていたというのに、呪の話をした途端に、また何が何やらわからなくなってしまったではないか──」 「すまん」  言った晴明のその口元が、微笑している。 「晴明よ、謝まりながら笑うものではない」 「すまぬ」 「眼がまだ笑っている」 「怒るな、博雅」  晴明は、立てていた右の片膝の上に右肘を乗せ、 「ところで、博雅──」  話題を変えるように言った。 「なんだ」 「それほど酔うていないのなら、この後つきあわぬか」 「つきあう? どこへだ」 「さあ──」 「つきあえと言っておいて、行く先がわからぬのか──」 「朱雀大路を南へ下って、そうさなあ、羅城門あたりまでも行けばよいか」 「なに!?」 「捜しものを頼まれたのさ」 「捜しものだと?」 「うむ」 「誰に頼まれたのだ」 「それがまた、誰というのも妙なところなのだが、性空《しようくう》聖人の身の回りのお世話をしていたお方にさ──」 「性空聖人というと、あの播磨国《はりまのくに》の──」 「うむ。飾磨郡《しかまのこおり》は書写山《しよしやざん》の円教寺におられる性空殿さ」 「しかし、性空殿が何でまたおまえに──」 「いや、性空殿ではない。捜しものを頼んできたのは、その性空殿にお仕えしていたお方だと言ったであろうが」 「誰なのだ」 「その方が来ればわかる」 「来る? ここへか」 「うむ」  晴明はうなずいた。      二  性空聖人が生まれたのは、播磨国である。  従四位下の橘朝臣善根《たちばなのあそんよしね》という人物の子であった。  母は源氏であった。  多くの子を生んだが、そのたびに難産で苦しんだため、末の子である性空聖人を身ごもられた時は、流産《るさん》させることになって毒の薬を飲むことになったのだが、これが効かなかった。  どうしようかと思っていると、母は夢を見た。  夢の中に、毘沙門天《びしやもんてん》が出てきて、 「播磨の国でその子を生みなさい」  という。  これを夫《つま》や屋敷の者に伝えたのだが、 「新しい子よりは、おまえの身の方が案じられてならないのだよ」 「ふた柱の神だって、ひるこが生まれた時にはお流しになったのだ」  夫や周囲の者はこのように言って、何が何でも流産させようとする。  そこで母は、身の回りの世話をするわずかばかりの者たちを連れて、他の者には行き先を告げずに播磨国に入ってしまった。  それで性空聖人は、無事この世に生まれることができたのである。  性空聖人が生まれた時には、幾つかの奇瑞《きずい》があった。  天より鐘の鳴る音が響き、黄金《くがね》の粉が宙よりその家に注いだという。  乳飲み児の時、乳母《めのと》が御聖人を抱いてあやしていたのだが、ついうとうととしてこの乳母が眠ってしまった。しばらくして乳母が眼を覚ました時に、抱いていた性空聖人がどこかへ消えてしまっていた。  大騒ぎをして皆で捜したところ、家の北にある墻《かき》の辺《ほと》りで、ただひとり、まだ赤子の性空聖人が座して遊んでいた。  いったいどうやって、歩けもしない生まれたばかりの乳飲み児がここまでやってくることができるのか。  幼きころより、生き物を殺さず、人に混じって遊ぶこともせず、ただ静かな場所に座して瞑想《めいそう》をした。仏法を信じ、出家したがっていた。  十歳の時には『法華経』八巻を習った。  元服したのが十七歳の時。  その後、母について日向国《ひゆうがのくに》に行った。  出家したのは二十六歳の時である。  霧島というところに籠《こも》って、毎日毎夜、『法華経』を読誦《どくじゆ》していた。  この頃にも奇瑞があった。  性空、あまり熱心に読誦を続けるものだから、食べるものを乞食《こつじき》して手に入れる時間もない。しかし、不思議なことに、食べるものが無くなると、いつの間にか戸の下に焼いた餅が三枚置いてある。  これを食《しよく》すると、一枚で数日は何も食べずに過ごすことができたという。  霧島を去り、筑前国背振山《ちくぜんのくにせぶりやま》に移り住み、三十九歳になった時には『法華経』を暗誦できるようになっていたという。  そして、今は、生まれた地である播磨国飾磨郡は書写山に、三間の庵《いおり》を造ってこれに住んでいる。  この庵を、いつの頃からか、誰言うともなく円教寺と寺の名で呼ぶようになったのである。  帝《みかど》も、何度かこの庵に御幸《みゆき》なされたことがある。  あるおりに、帝が延源阿闍梨《えんげんあじやり》というすぐれた絵師を伴《ともな》って御幸し、聖人の御影《みえい》を令写《うつさし》めたことがあったが、この最中に大地がおおいに鳴り騒いだ。  しかし、いくら大地が揺れても、ものが倒れたり、家が壊れたりするということがなかった。  不思議に思った帝がこのことを問うと、 「此れ、我が形《かたち》を写せるに依りて有ることなり。不可恐給《おそれたまうべからず》」  このように聖人は言われたという。  そのくらいのことであれば、宮中の噂で、博雅も耳にしたことがある。 �あの播磨の国の──�  と博雅が言ったのは、そういうわけであった。      三 「しかし、性空聖人のお世話をしているお方というのは──」  博雅が問うと、 「まあ、おいおいに話はするが、その前に博雅、近頃、朱雀大路で奇妙なことがおこっているという話を耳にしたことはないか」 「奇妙なこと?」 「うむ。たとえば、藤原清麻呂殿の話は?」 「ああ、それならば聴いた。たしか、お出かけになる時、急に牛が暴れ出して騒ぎになったあのことか──」 「そうだ」 「車が倒れて、清麻呂殿は、手に傷を負われたそうな」 「他には?」 「他に? そう言えば、夜に、女のもとへゆこうとしていた橘将隆《たちばなのまさたか》殿が、よくわからぬが、虫か何かに首筋を刺されたという話も聴いたな」 「ほほう」 「いきなりだそうだ。蜂か何かなら羽音か何かがするはずだが、そういう音も何も聴こえず、いきなり刺されたそうだ。あわてて手で首筋を押さえたのだが、虫はすでにそこにおらず、どこぞへ飛んでいってしまったらしい」  博雅が言い終えるのを待って、 「実はな」  と晴明が博雅を見やった。 「似たような話が、他にもまだある」 「まだ?」 「薪《たきぎ》売りにやってきた西の京の男が、やはり朱雀大路で、その虫に尻を刺されている」 「虫?」 「まあ、虫ということにしておこう」 「まだあるのか」 「ある。二日前のことだ。平行盛《たいらのゆきもり》殿が、馬で朱雀大路をゆくと、これもまた馬が急に暴れ出して、行盛殿は振り落とされて肩から落ち、肩の骨をはずされたらしい」 「むう、それも朱雀大路でのことだったのか──」 「うむ」  晴明はうなずいた。 「まあ、そういったようなことが、この五日ばかりの間に、おれの知るだけで、八件くらいおこっているのさ」 「八件?」 「うむ」 「おまえが、つきあわぬかと言ったのは、このことと関係があるのか」 「ああ、ある」 「で、朱雀大路へ?」 「まあ、そういうことだ」 「つきあうのはかまわぬが、もうゆくのか。それとも──」  博雅がそこまで言った時、 「もうそろそろさ」  晴明が、庭先に眼をやった。 「そろそろ?」 「さきほど話をしていたお方がもどってきたらしい」 「なに!?」 「そのお方は、おまえがやって来る前に、ここにおられたのさ。用事があって出かけていて、今、もどってこられたのだ」  晴明が言い終らぬうちに、屋敷の角を回り込んでこちらへやってきた者があった。  まるで、秋の野のように生い繁った草を分けて姿をあらわしたのは、十四、五歳ばかりの童子であった。 「晴明さま──」  やってきた童子は、慇懃《いんぎん》に晴明に向かって頭を下げ、 「先方にお話し申しあげたところ、そういうことなら、しばらく置いてやろうとのことでございました」  このように言った。 「よかったではありませぬか」 「これも晴明さまのおかげでござります」 「では、あちらにてお待ちくだされませ。見つかり次第おもちいたしましょう」 「ありがとうござります、晴明さま──」  童子がまた頭を下げた。  その頭の下げ方や口振りに、妙に大人びたものがある。 「では、あちらでお待ち申しあげております。なにとぞ、よしなに──」  童子は、何度も礼を言いながら、草を分けてまた向こうへ姿を消した。  童子の気配がすっかり消えてから、博雅は好奇心でふくれあがりそうな顔を晴明に向け、桶からひと息に水をこぼすようにしゃべり出した。 「今のはいったい、何のことなのだ。今しがたここに来た童《わらわ》が、おまえが待っていたという、性空殿の身の回りのお世話をしていたというお方なのか。ならば、どうして、あの童に対してお方などという言い方をするのだ。おれには何もわからぬぞ──」 「おいおいわかる」  晴明は言った。 「おいおいではない。今教えてくれ」  博雅の声が聴こえていないように、 「ゆくぞ、博雅」  晴明は、腰をあげた。 「おい、晴明──」  博雅も尻にあずけていた体重を脚に移している。 「ゆかぬのか」  涼しい顔で晴明は言った。  晴明は、もう、歩きかける寸前である。 「ま、待て──」  博雅もあわてて腰を浮かせた。 「ゆくか」 「ゆく」  博雅はうなずいて、立ちあがった。 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      四  牛車《ぎつしや》を降りて、晴明と博雅は、朱雀大路を歩いている。  北から南へ。  ゆるゆると、陽差しの中を、南へ下っている。  薪売りも歩いていれば、荷を積んだ馬を牽《ひ》いて、同様に朱雀大路を下ってゆく者もいる。  正面に、遠く羅城門が見えている。  羅城門の左に東寺の塔が、右に西寺の塔が見えている。  博雅は、歩きながら、不平の言葉を口から洩らしている。 「晴明よ、おまえはどうして何も話してくれぬのだ」  それが、博雅には不満らしい。 「そんなことはない」  言いながら、晴明は、ゆるゆると歩を進めている。  左手に、酒の入った瓶子《へいし》を紐で括《くく》ったものをぶら下げている。 「いやある」  博雅は、断固として言った。 「だいたい、今ぶら下げているそれは何だ」 「酒さ」 「それはわかっている。おれが訊きたいのは何故、今そうやって酒をここまで持ってきているのかということだ」 「捜しものが見つかったら、これで一杯やろうかと思っているからさ」 「だから、その捜しものとは何なのかと、おれはこれまでにも度々訊いているではないか。おまえは、それになかなか答えてくれぬ」 「あててみるか」  晴明が言う。 「さっきは、教えると言っていたぞ。何でおれがそれをあてねばならぬのだ」 「あてる自信がないのか」 「いや、おれは、自信があるとかないとか、そういうことを言っているのではない。おまえが教えてくれると言っていたではないかと言っているのだ」 「いつおれが教えると言った」 「言った」 「おれは、いずれわかると言ったのだ」 「い、いずれ──」 「わかると言ったのだ。教えると言ったのではない」 「それは、意地の悪い言い方ではないか、晴明。おれは──」 「だから、あててみるか」 「あてる?」 「そうだ。もうおまえは、おれがこれから何を捜そうとしているのか、それがわかるはずだ」 「わからぬぞ、晴明。どうしておれにそれがわかるのだ」 「わかるだけのことは、皆、おまえに教えたからだ」 「な──」 「よいか、博雅、まずこれは、どこの土地に関わりのあることだ」 「土地と言っても──」 「性空殿が、今、いらっしゃるのはどこだ?」 「それは、播磨国だ」 「わかっているではないか」 「播磨国はいいが、それでいったい何を捜しているかがわかるというのか」 「わかる」 「わからん」 「よいか。性空殿がお生まれになった時のことは、おまえも色々知っているであろう」 「う、うむ。だが、それがどうした」 「それがひとつ」 「何がひとつなのだ」 「ふたつめは、吉備真備《きびのまきび》殿だ」 「何故、ここで吉備真備殿の名が出るのだ。真備殿は、ずっと昔に亡くなられたお方ぞ」 「この吉備真備殿が、唐へ渡ってお帰りになられたおり、開かれたのは──」 「広峯《ひろみね》祇園社ではないか」 「その広峯祇園社があるのは?」 「播磨国ではないか。吉備|大臣《おとど》は、そこで牛頭《ごず》天王の御霊夢をごらんになり、それでこれを祭るために広峯祇園社をお開きになられたのさ」 「吉備大臣は、鉄《くろがね》や黄金《くがね》のことにもお詳しかった」 「うむ」 「東大寺の大仏殿に毘盧舎那仏《びるしやなぶつ》を建立《こんりゆう》する際にも、裏であれこれ動かれて、大仏の上に張る黄金などを調達するための大きな力となられたのが、この吉備真備殿ぞ──」 「───」 「吉備大臣は、わが陰陽道の祖とも言われているお方だ。この吉備大臣があそこと関わりの深いことは、言うまでもあるまい」 「あそこ?」 「そうさ、あそこも、鉄を産する土地だ」 「播磨国か」 「そうだ」 「だから、播磨国がどうだと?」 「思い出せ、博雅。性空聖人がお生まれになった時、その左の掌《たなごころ》を堅く握っておられたという話は耳にしていよう」 「う、うむ」 「その左手に握っていたのは何であった?」 「は、針だ。針ではなかったか、晴明よ」 「そうだ。針と言えば──」 「播磨国で多く造られているものではないか」  博雅がそう言った時、とん、と晴明が博雅の胸を左手で軽く突いた。  思わずよろけ、 「な、何をする、晴明──」  言った博雅の眼の前で、きらりと何かが光ったように見えた。  光った時には、もう晴明の右手が動いて、博雅の眼の前の宙を撫でていた。  身体をたてなおし、 「ど、どうしたのだ、晴明!」  博雅が、高い声をあげた。  晴明は、拳に握った右手に二度息を吹きかけ、小さく口の中で呪を唱えた。 「済んだ」  晴明は言った。 「何が済んだのだ」 「これさ」  晴明は、右手を差し出して、それを博雅の前で開いてみせた。  晴明の右手に、一本の針が載っていた。 「何なのだ」 「針だ」 「いや、針はわかる。この針がいったい何だというのだ」 「だから、性空聖人がお生まれになった時、その掌の中に握っておられたのが、この針だということさ」 「わからぬ。何を言っているのだ」 「おれが捜していたのは、この針なのだ」 「なに!?」 「では、ゆこうか」 「ゆく? どこへだ」 「西の京」 「───」 「蘆屋道満《あしやどうまん》殿のところまでだ」  晴明は言った。      五  晴明と博雅は、崩れた土塀をまたいで、中へ入って行った。  一面、草が繁っている。  秋の草である。  晴明の屋敷と似ていなくもないが、晴明の屋敷の庭は、いくら手の入らぬ野のように見えようとも、晴明の意志がほどよく働いている。  薬草になるものを、意識的にまとめて生やしてあるし、そこそこには手入れもしている。  しかし、ここは──  野そのものであった。  秋の草が思うさま繁っており、薄《すすき》の群落などは、その穂先が人の頭よりも上にあったりする。  晴明は、勝手を心得ているように、足を踏み出し、薄を分けて奥へ進んでいった。  本堂があった。  本堂といっても、大きなものではない。  破《や》れ寺だ。  屋根のあちこちは崩れ、瓦も落ちている。  その屋根からは、草まで生えていた。  屋根の上で、薄の穂や、女郎花が揺れている。  簀子の板も、あちこちが割れて落ちている。  その下からも草が伸び、まるでここに人が住んでいるとは思えぬほどであった。  人がいた。  襤褸《ぼろ》を身に纏《まと》った老人が、その簀子の上で横になっていた。  右脇を下にして、右肘を突き、右掌の上に頭を載せて、やってきた晴明と博雅を眺めていた。  蘆屋道満であった。  着ているものは、どうやら水干《すいかん》らしいが、もとが何であるのか、すぐにはわからぬくらいに、それは破れ、ぼろぼろになっていた。  白髪。  白髯《はくぜん》。  ふたりを眺めている黄色い眼が、炯炯《けいけい》と光っている。  老人──道満の横に、しばらく前に見たあの童子が座して、しきりに道満の腰を揉んでいる。 「来たか、晴明──」  横になったまま、道満は言った。 「酒を持ってまいりました」  挨拶する前に、もう晴明は左手に持った酒の入った瓶子を持ちあげて言った。  道満の顔が、思いがけなく柔和な笑みを作った。 「ほう、気がきくではないか」  道満は身を起こし、そこに胡坐《あぐら》をかいた。 「で、首尾は?」  道満が訊いた。 「無事、見つけてまいりました」  晴明が言うと、 「本当でござりまするか」  道満の横にいた童子が、膝立ちになって嬉しそうな声をあげた。 「まあ、あがれ」  道満が言った。  晴明は、うながされるままに、簀子の上にあがった。  博雅も、続いて簀子の上にあがる。  晴明と博雅は、ほどのよい距離をとって、道満と童子の前に座した。  ごとりと、晴明が瓶子を簀子の上に置いた。 「見せてみよ」 「はい」  晴明は、右手を差し出し、それを開いてみせた。  そこに件《くだん》の針が載っていた。 「これか」  道満が言った。 「すでに鎮めてありますれば、勝手に何かするようなことは、もうなかろうかと思われます──」 「そのようだな」  道満が、それを手に取った。 「性空の針、なかなかのものじゃ」 「はい」  晴明がうなずく。  道満は、童子に向きなおり、 「どうじゃ、持ってみるか」  その針を差し出した。 「いえ、わたくしはもう充分に懲《こ》りておりますれば」  童子は、首を左右に振って、それを辞退した。 「晴明に礼を言うておけ」  道満が言うと、 「晴明さま──」  童子は晴明に向かって膝を正した。 「今度《こたび》はまことにありがとうござりました。晴明さまがおられねば、今頃、わたくしどのような目にあっておりましたことやら──」 「たいしたことをしたわけではありませぬ。こちらの博雅様に助けていただきました。朱雀大路で何度も播磨、播磨と言わせてしまいましたが、おかげでこのように針を捜し出すことができました」  晴明はそう言ったが、童子はしきりに恐縮をしている。 「おい、晴明──」  ついに辛抱しきれなくなったように、博雅が言った。 「おれはまだ何もわからぬぞ。おれがいったい何を助けたというのだ。おれに播磨と言わせたというのはどういうことなのだ」 「いや、すまぬ博雅。ゆるりと説明しよう」  晴明は、そう言いながら、懐から紙に包んでいた器《かわらけ》を四つ、取り出して簀子の上に置いた。  童子が瓶子を手に取り、 「さ、博雅さま」  博雅の前に置かれた器に、酒を注いだ。 「む、むう──」  博雅が、酒の注がれた器を手に取った。 「さ──」  童子が、道満、晴明の器に酒を注いでゆく。  道満は、器を手に取り、うまそうに酒を干した。 「良い酒じゃ」  満足そうにつぶやいた。  三人がそれぞれ酒を口に運ぶのを見やってから、童子は、空になった器に、また酒を満たす。  それを終えてから、 「まず、わたくしからお話し申しあげましょう」  あらためて童子は皆を見やった。 「わたくしは、しばらく前まで、播磨の性空御聖人のもとにいたものでござります──」  童子は、語り始めた。 「その針は、わたくしが、性空御聖人のもとから持ち出してきたものでござります……」      六  ある時──  播磨の書写山で修行している性空聖人のもとに、ひとりの童《わらわ》がやってきた。 �長短《たけひき》にて身太くて力強げなるが、赤髪なる──�  ずんぐりとして、たくましく力の強そうな童であった。  不思議なことに髪が赤かった。  この童が、 「どうか、御聖人さまのお傍にお仕えさせていただけませぬか」  このように言う。  すでに何人かの弟子や童などがいて、修行しながら性空聖人の身の回りのことをしたり、寺のことをしたりして、あれこれとお仕えしていたのだが、 「そういうことならば──」  と聖人はこれを許した。  この赤髪の童が、よく働いた。  木を切って運ぶおりにも、四、五人分は働き、用事を頼んでどこかに行かせても、百町ばかりのところを、二、三町を行くがごとくに歩き、たちどころにやるべきことを済ませて帰ってくる。 「これは極めたる重宝じゃ」  と弟子たちは、この童のことをえらく感心して見ていたのだが、性空聖人だけは、皆とは違うことを思っていた。 「此の童は、眼見《まみ》極めて怖ろし。我れさらに好まず」  この童は、眼つきに怖ろしいところがあって、どうもそこが気になるのだという。  一年近く経った頃──  この童よりも少し年上の童が性空聖人にお仕えしていたのだが、ある時、このふたりの童が、ささいなことで喧嘩をした。 「おまえがいけない」 「いや、それはおまえのせいだ」  どちらも譲らずに言いあっているうちに、 「こうしてくれる」  件の童が手を出して、年上の童の頭を殴ってしまった。  ひと殴りしただけで、年上の童は、仰のけに転んで、ぐったりと動かなくなってしまった。  それを見ていた弟子たちが集まってきて、年上の童を抱き起こし、頬を撫でたり、頭に水を注いだりしていると、やがて息をふきかえした。  それを知った聖人は、 「然《さ》ればこそ不用の童と言いつれ」  だからこそ、この童は使わねばよかったと言っていたのだ──このように言った。 「わけあって、おまえを使っていたが、このようなことがあっては、もうここへ置いておくわけにもゆかぬ」  性空聖人は言った。 「速《すみ》やかに出《いで》ね」  童は、泣いて許しを乞うた。 「そんなことをおっしゃらないで、わたくしをここへ置いて下さい。帰ってゆけば、重い罪を受けることになってしまいます」  さめざめと涙を流した。 「我が主《あるじ》が、懃《ねんごろ》に仕《つかまつ》れとて遣《つか》わしたれば、参りたり」  自分の主人が、性空聖人にお仕えせよというのでやってきたのだが、ここをこのように追い出されたことを主が知れば、あの方はきっとわたくしに重い罰を与えることでしょう──このように童は言った。  しかし、聖人の考えは変わらなかった。 「いいや、ならぬ」  こう言われては、どうしようもない。  童子は泣きながら門から出てゆき、出たところで掻き消すようにその姿が見えなくなった。 「何だったのだ、あれは──」 「妖《あや》しのものだったのであろうか──」 「妖しのものとわかっていたら、まさか始めから御聖人さまがあやつを使うわけもなかろう」  弟子たちはこのように言いあった。  それを耳にした性空聖人は、 「理由《わけ》あって、これまで黙っていたのだが、このままおまえたちに何も知らせずおくのもかえって修行のさまたげになるであろうから、話はしておこう」  このように言って、話を始めた。 「一年ほども前であったか──」  眠っていると、夢の中に毘沙門天《びしやもんてん》が姿を現わしたのだという。 「何か不自由しているものはないか──」  毘沙門天は、このように性空に言ったというのである。  そこで、性空は言った。 「では、わたしの身の回りのことを、あれこれとやってくれる方はおりませんか」  そこで眼は覚めたのだが、件の童がやってきたのは、それからほどなくのことであったというのである。 「では、あれは、毘沙門天が遣わされた童であったのですか」 「その通りだ」 「それが、何故あのような──」 「あれは、毘沙門天の眷族《けんぞく》である護法童子のおひとりさ」 「なんと──」 「見た時に、すぐそれとわかったのだが、気性の荒いところがあったので仕えさせるのをやめさせようとも思うたのだが、毘沙門天にこちらからお願いしたことでもあり、何か事《こと》あるまではと思って、仕えさせることにしたのである」  このように聖人は言った。 「で、護法童子と申しますと?」  弟子のひとりが訊いた。 「東寺の善膩師童子《ぜんにしどうじ》じゃ」  このように性空は言った。  ところが──  件の童が出ていったその日から、御聖人が日頃より大切にしていた、生まれた時に握っていたという件の針が、置いてあった場所から失くなっていたというのである。      七 「わたくしが、針を持ち出し、都まで持ってきてしまったのでございます」  童は言った。 「では、そなた──」  博雅がその童を見やった。 「善膩師童子でござります」  童が、博雅を見やり、名を名のった。 「な、なんと──」 「教王護国寺で、ふだんは、吉祥天とともに毘沙門天の像の横で控えておりますのがわたくしでございます」  とんでもないことを、童子は言った。  とても、博雅には俄《にわ》かには信じられぬことであった。  しかし、晴明の表情をうかがうと、嘘を言ってるようではない。 「だが、しかし、善膩師童子殿には、何故に御聖人のもとから針を持ち出されたのじゃ」  博雅は訊ねた。 「このように大切な品を持ち去れば、すぐに御聖人がそれとお気づきになり、わたくしを追ってくるかと思ったのです」  童は言った。 「追っていらっしゃったら、あらためてわたくしをおいて下さるようお願いするつもりであったのです。針はお返しいたしますので、どうか、いま一度、わたくしをお使い下されませと申しあげようと思っていたのですが──」  童は、その眼から涙をこぼし、 「わたくしの心得違いでございました」  頭を下げた。 「いつ追ってくるか、いつ追ってくるかと都までやってきて、とうとう羅城門まで来てしまったのですが、御聖人はおろか、誰も追ってはきませんでした」 「それで?」 「播磨より遠ざかるにつれて、手に持っていた針が、だんだんと熱くなり、ついに羅城門のあたりでは、針が真っ赤になり、手に焦げ目がついて、もうとても持ってはいられなくなったのです」  このまま、針を持って東寺にもどれば、毘沙門天からどのような罰を与えられるかわからない。  困っているうちにもさらに針は熱くなり、ついには耐えられなくなって、 「思わず針を投げ捨ててしまったのです」  童は言った。  しかし、針を投げ捨てても、東寺へもどるわけにもいかない。  だからといって、播磨にもどるわけにもいかない。  しばらく、朱雀大路をうろうろとしながら、投げ捨てた針を捜そうとしたのだが、これが見つからない。  そのうちに、妙なことがおこるようになった。  朱雀大路を行く牛や馬や人を、虫のようなものが刺すようになった。  しかし、この虫の正体がわからない。 「これがな、調べてみると、妙なことがわかったのさ」  そう言ったのは、晴明である。 「何がわかったのだ」  博雅は訊いた。 「それがな、虫に刺されたのは、いずれも播磨に向かおうとしている者たちや、その馬や牛であったのさ」 「なに!?」  博雅は声をあげた。 「そういう時にな、善膩師童子殿がいらっしゃったのだ」  晴明は言った。 「捜していた針は見つからず、ついに思いあまって、晴明さまのもとに御相談にうかがったのです」  童は言った。 「それで、おれは虫の正体がわかったのさ」 「正体?」 「その針さ」  晴明は、道満がまだ指先でつまんで持っている針を見やった。 「しかし、何で、針が?」 「針は、播磨の性空殿のもとにもどりたかったのであろうよ。それで、播磨へゆこうとする人や馬の身体に刺さって、播磨までもどろうとしたのだが、さすがは性空殿の針──人や獣を傷つけたと見るや、すぐに離れてまた地に落ちる」 「それで、同じようなことが何度も」 「うむ」 「それでは晴明、朱雀大路で、何度となくおれに播磨という言葉を口にさせたのも──」 「朱雀大路に落ちている針殿に、博雅殿を刺していただこうと思うてな」 「なんで、それをおれに言わなかったのだ」 「言えば、おまえが怖がるだろうと思うてな。播磨という言葉を口にする時に、わずかでも脅《おび》えていれば、それが言葉にこもってしまう。さすれば、性空聖人の針は飛んでは来ぬであろう」 「なるほど……」  博雅はうなずいてから、 「しかし、まだわからぬのは、そこにおられる道満殿のことぞ」 「何がわからぬ」  道満が言った。 「簡単なことさ、博雅」  晴明が、道満にかわって答えた。 「道満殿は、播磨のお生まれぞ」 「───」 「播磨の陰陽法師は、皆、道満殿に従っている者たちばかりだ──」 「むう、そうであったな」 「性空殿が、最初に書写山に庵を結ぶことができたのも、そのおりに道満殿の口ききがあったればこそのことぞ」 「そういうことか」 「針が見つかったら、道満殿に、今度《こたび》のことについては、色々と取りなしていただこうと思うてな」 「ほう」 「針は必ず見つかると思うていたから、善膩師童子さまのことをあらかじめ道満殿にお願いしておいたというわけなのだ」  晴明は言った。 「ま、そういうことだ」  うなずいたのは道満である。 「針さえあれば、このおれが、性空にとりなしてやろうではないか」  そう言って道満は、からからと笑った。  知らぬ間に、道満の器《かわらけ》が空になっていた。  童子に酌《しやく》をさせ、道満はまた、美味そうに酒を飲んだ。 「なるほどなあ」  博雅は、感心したような声をあげた。 「飲め、博雅──」  道満が、瓶子を握り、博雅に向かって差し出した。 「いただきましょう」  博雅が、器を持ってうなずいた。 「どうだ、博雅、それを飲んだら笛でも吹いてくれぬか」  晴明が言った。 「おう」  博雅がうなずく。 「おう、博雅殿の笛か。わしも所望じゃ」  道満が言った。  うなずいた通りに、博雅は酒の後で笛を吹いた。  秋の野に、喨喨《りようりよう》と笛の音は響き、風がその音を蒼い天まで運んだ。      八  この後、道満のとりなしで、童子は性空のもとまでもどることができた。  性空は、寛弘五年に亡くなるまで生きた。  齢《よわい》、八十歳。  性空の死後、童子はまた東寺にまでもどった。  この童──善膩師童子の左手には、しばらく、細長い筋のごとき焦げ跡が残っていたと言われている。 [#改ページ]   あとがき 晴明、博雅の風景 『陰陽師』も息の長いシリーズになってしまった。  この物語を書き出したのは、『キマイラ』シリーズや、『魔獣狩り』シリーズなどを毎年一冊くらいのペースで書いている頃であったのではないか。  現在は、『陰陽師』のみならず、前記した先行しているシリーズ『キマイラ』、『魔獣狩り』、『餓狼伝』なども、まだ終らずに書き続けている。 『陰陽師』が一話完結方式で書かれているのにくらべ、あちらの方は、ただ一本の物語をもう二十年以上も終らずに書いているということになる。  よく寿命がここまであったものである。  ぼくの本で、これまで、一番売れたものが『魔獣狩り』の第一巻であった。  思えばこの『魔獣狩り』を仮想敵国として、なんとか『魔獣狩り』をしのぐ話をと書き出したのが、この『陰陽師』であった。  そして、ついに昨年、『魔獣狩り』第一巻の売りあげ部数を、『陰陽師』第一巻の売りあげ部数が抜いてしまったのである。  十六年、かかった。  つまり、この『陰陽師』が、昨年、ぼくの現在書いている他の全ての物語の仮想敵国となってしまったことになる。  今度はこの『陰陽師』を越える話を書かねばならない。 『魔獣狩り』は、まだ書き続けており、これが再び『陰陽師』を抜き返すかもしれず、『餓狼伝』だって、いまだに部数は伸び続けているのである。 『キマイラ』だって、完結までにはあと十年以上かかりそうであり、いつどういうぐあいにこの順位が入れ代るかわからない。  最近では、小学館の『テレビサライ』で、『大江戸恐龍伝』という、とてつもなくおもしろい物語の連載をはじめてしまった。 『陰陽師』、油断するなよ、というところなのである。  さて──  今回もまた、晴明、博雅コンビの話、どれもおもしろい。  ぼくが『陰陽師』で書いているのは、いつ、誰がどこからこの物語を読み始めても、常に必ずあの縁側に晴明と博雅が座っていて、いつもと同じように酒を飲み、いつもと同じように会話をしている──そういう風景である。  この風景の外へ、できるだけ出てゆかないようなかたちで、この物語を書いているのである。 『フーテンの寅さん』みたいなところが、あるかもしれない。  いつ行っても、柴又の�とらや�においちゃんとおばちゃんがいて、さくらがいてひろしがいて、寅さんがタコ社長とケンカしている──  ベーカー街221番地Bのあの部屋に、いつもホームズとワトスンがいるように、いつもあの濡れ縁に晴明と博雅が座ってお酒を飲んでいる──  困ったことにというか、嬉しいことにというか、この風景、ぼくはいくらでも書けるのである。  マンネリをおそれない。  そこがうまくいっているようにも思う。  すっかりぼく自身が、晴明、博雅のいるあの風景になじんでしまい、自分が書き手ではなく空気としてあの場にいるような気さえしてきてしまうのである。  いつも、スタートの一行目を書き出す時は、ぼく自身が身を置いている現実の季節から始めることになっている。  春ならば、桜や新芽のことを書き、冬ならば雪の描写からスタートする。  書き出す時が雨ならば、そのまま雨の気分で書き出しているのである。  だから自然に、現実のぼくがあの風景の中に入ってゆけるのである。  だから、つまり、いつでもどんな時でも、ぼくはたやすくあのシーンから書き出すことができるのである。  スタート──つまり、一行目はその時のぼくの気分であるからである。  そういうわけです。  どうやら、一生書いちゃうことになりそうです。  よろしく、おつきあい下さい。  二〇〇三年 二月十七日 [#地付き]小田原にて── [#地付き]夢枕 獏  単行本 二〇〇三年四月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十八年三月十日刊